コンテンツへスキップ 投稿日:2024年3月15日/更新日:2024年12月22日

ルカ6章39-49節、弟子の道を問う

弟子の道は一本道

イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

ルカの福音書6章39-49節 聖書協会

弟子の道を問う

弟子の道、キリスト者の生き方の内容の問いが続く。主イエス・キリストが委ねる御国の事業を担うことを許された者への語りかけです。キリスト者を通しキリストのご支配が見えます。御国の王なるキリストを想い起こさせるのが弟子の姿です。その弟子にさらに語ります。

最初見る「たとえ」です。盲人が盲人の手引きが出来るでしょうか、と問います。問いの時点で結論が出ています。手引きは出来ません。ここは肉眼で見えるかどうかでないでしょう。「たとえ」、とことわり、ここの盲人は自分をわかっていない、わかろうとしない者かもしれません。こころの盲点を自覚せず、見ない者でしょう。お語りになる主イエス・キリストがどのようなお方かわかっていません。わかろうとしない者がここでの盲人でしょう。

リーダーシップが強調されるなか、スキャンダルが報じられ、その責任が問われているのは手引きする者です。組織ぐるみでやっていること、起こっていることがわかっていないのです。課題が指摘されても、向き合い、わかろうとしない姿勢が散見します。第三者委員会に任せうやむやにすることもあります。ここは主イエスの弟子に、教会への教えのことばです。私たち、主イエス・キリストの弟子たち、キリスト者へのみことばです。

わかっていないリーダーだとひどいことが起こります。どちらも穴に落ち滅びます。しかし、訓練次第で、わからない者にはならない道があります。キリスト者は手引きをしてくださるお方を知っています。だから主イエスは弟子たちに、あなたがたは盲人ですと戒めたのではなく、弟子たちの将来のために教えます。だから、訓練です。

相手の目のチリを見る者

見ることについてさらに言及します。普段何気なくしている、見ることが危険をおびていると気付かされます。最初の罪が、見る、をきっかけに起こりました。ここでは相手の目のチリを見て自分の目の梁が見えていないことです。相手の落ち度がチリほどでも気になり、ときに語気を強め責めがちです。しかし、自分の目にある梁にも匹敵する落ち度は一向に見ようとしない罪があります。相手のチリを見るときは、自分を見ていません。見るのは相手のことばかりです。相手のチリを見てお終いとなりません。

主イエスから、偽善者の指摘があります。仮面をかぶり偽りの自分を演じる者に、先ず自分の目から梁を取りのけなさい、と言われます。相手のチリを指摘し、良い者ぶるのは偽善者だと言うのです。まず自分の目から梁を取りのけなさい、と主イエスは言われます。先ず自分を見るようにです。どのように見ることが出来るでしょうか。それは、語られる主イエス・キリストを見ることです。主イエスのみことばを聞くことで、自分の実像を見ます。

自分の目の梁を取り除きなさい、の後に主イエスは言われます。取り除いてこそ、兄弟の目のチリがはっきり見え、取りのけることができるのです。目に異物が入っていたら見えないでしょう。梁とチリは裁きの感情、高慢な態度、罪ではないでしょうか。主イエスがこころの奥底を見て下さり、弟子の道を明らかにしてくださいます。

先ず自分の目にあるものを取り除いていただき、その上で兄弟の異物を主イエスのあわれみで取り除かれるよう願います。自分の梁を指摘され、相手のチリを大目に見るのではありません。梁とチリの大きさを比較することでもありません。どちらも罪です。キリストの十字架で罪を赦していただくだけです。私たちのために死なれた主イエスにより罪を赦していただくのです。

当人自身への問い

弟子の間の振る舞いから弟子個人に言及します。木の良し悪しはこころの良し悪し、実は振る舞いです。四十五節に良い人とあり、こころの良い倉と続きます。良い人と悪い人の対比があり、倉はこころの良い人と悪い人の対比です。木の良し悪しは実でわかり、倉は出し物で良し悪しが露わになります。口から出る言葉が語る人の姿を現わすと言うのです。

弟子は主イエスのあわれみにより、良い木とされたのであり、良い人とされ、良い倉を与えられた者です。主イエスに聞き、倣い、良い倉からの言葉を告げる者たち、弟子とされました。

「神である主は、私に弟子の舌を与え、

疲れた者をことばで励ますことを教え、

朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、

私が弟子のように聞くようにされる。」(イザヤ五十:四)

言葉と行いが乖離する者に主イエスの厳しい教えが「たとえ」で語られます。言うこととやることのちぐはぐさに厳しい視線が注がれます。「なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。」口先だけです。言行一致の生き方をしなさい、と主イエスはおっしゃっているでしょうか。そうではなく、救い主を知る者に仮面は不要、ただ十字架のキリストを仰ぎ、御名を呼ぶ弟子であればよいと語ります。

主のみことばを聞く者

主イエスのみことばを聞き、行う人がどんな者に似ているか話します。岩の上に家を建てた人、岩なる主イエスに立つ者となり、洪水が来てもびくともしない。四十七節で、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たち」とあります。そして、聞いても実行しない人にも言及します。その者は土台無しで家を建てる人に似ています。洪水で家がいっぺんに倒れます。人生台無しです。それで良いのか、今どこに立つのか問います。

「たとえ」で語る、盲人、見る、木と倉とこころのこと、そしてみことばを聞き行うのは、岩なる主の上に建てられた者であるとこころに刻むためです。あなたは仮面舞踊会に生きる者ではありません。十字架のキリストの贖いを基とし、そこに根ざし主の弟子として生かされています。

                            蕨キリストの教会 戸村 甚榮

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