ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。』洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」
ルカ福音書 第7章24~35節
イエスの問い
バプテスマのヨハネ(以降ヨハネとする)の弟子たちが去った後、イエスはヨハネのことを語り始めます。聞き手には、ヨハネの教えを聞いた者、イエスの教えを聞いている者、また両方を聞き比較する者もいたでしょう。群衆にイエスは問います。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。」イエスは三つの問いをあげます。
一、風に揺れる葦ですか。二、贅沢な生活をしている人を見に行きましたか。でなかったら、何を見に行きましたか、と前置きをし、預言者ですか。預言者であるとイエスは言われます。一と二で、自分は何を求めて荒野に、と自問する者もいたでしょう。好奇心と華やかさを求めた者もいたでしょう。だから問います。贅沢願望の者たちにはより多くのことばが用いられます。
イエスが明らかにしたのは預言者です。都の政治、経済、宗教上の栄華を後にしています。都で得られなかったものを荒野の預言者に求める群衆です。荒野だからこそ真っ直ぐ、ひたすらみことばに聞き入ることが出来ます。みことばにこそ人々を満たすいのちがあります。みことばで彼らの将来が開かれます。群衆はヨハネを思い出したかもしれません。
ヨハネについて語るイエス
イエスは語ります。「だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。」彼らの体験を超えるヨハネの真実を語ります。一つはイエスとのつながり、イエスのための道備えとしてのヨハネです。神のご計画により、みことば宣言とイエスの到来に備える者、預言者よりもすぐれたと表現されます。ヨハネに固有の使命があったのです。「すぐれた」は、より広範な使命を果たす意味で他よりも、と解することができます。
もう一つは、あなたがたに言いますが、と主張された真実です。「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。」大胆な宣言です。どのような意味ですぐれていたのでしょうか。先に述べたように、イエスと、特有な関わりある者としてヨハネよりすぐれた人はひとりもいません。イエスにバプテスマを授けました。イエスと共にみこころを果たす者で彼よりすぐれた人は、ひとりもいません。
ヨハネよりすぐれた者
次のみことばはさらに驚きです。「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」いままで女から生まれた者の中で、ヨハネよりすぐれた人は皆無と聞いた矢先、今度はヨハネよりすぐれた者がいる驚きの宣言です。預言者や、固有の使命を帯びた者でもありません。すぐれた者の特質は身分です。神の国で、と御国の民とされた者との対比がなされます。
預言者は御国の到来を語ります。最後の預言者ヨハネは御国の門口に立ち、道を備え、御国の王を世に現わします。民に王を紹介し、悔い改めのバプテスマを授け、道を備えます。しかし、イエスのみ声を聞いている者は御国の前に立っています。手が届くところに来たのです。でも二通りの人がいます。ヨハネの教えを受けた者、神を受け入れ、そのご支配に委ねる者です。
他方、御国に近い筈のパリサイ人や律法学者たちはヨハネのバプテスマを拒否します。ヨルダン川のほとりで、神のみこころを拒否します。神に仕える者たちの底知れない罪が明らかになります。民の先頭で、御国への望みを人一倍強く抱いている筈の者たちです。目の前のイエスを拒否します。みこころを拒否します。後に彼らからイエスを十字架に架ける者たちが出ます。
ルカの福音書 蕨キリストの教会 伝道者 戸村甚栄
イエスを拒否する者
拒否する者たちを、我が儘な子どもたちにたとえ取り上げます。起こっていることに無関心で、傍若無人に振る舞う子どもたちに似ているとします。大のおとなが子供と同じ振る舞いと指摘されるのは恥です。指導し、神殿にかかわる、聖別された者の振る舞いが子供のようだとイエスは言うのです。要職に在る大人が、迫る時代に無頓着で、恥ずべき姿が露わになります。
大人の歪んだ心を指摘します。子どもの話で終われば、心の闇を指摘されたショックはあったにしろ、たとえですからその場は少し凌げたかもしれません。ところが、今度は神を拒否する者たちが放つ非難の言葉を取り上げます。彼らは、ヨハネの生活ぶりを見て共感どころか、非難します。ヨハネの禁欲生活を見て「あれは悪霊につかれている」、神の民としてなんと付き合いの悪い者と非難します。
主の食卓を見て
目を転じイエスの食卓を見て「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と、パーテイ好きの大食漢と非難します。それにイエスと同席する者たちの類に彼らは耐えられません。イエスが取税人と罪人の仲間のように振る舞うと責めます。野放図な食卓を許せません。彼らの規定があります。誰とも食卓に着くのを見て、規定を無視していると非難します。
当時食卓は大切な位置を占めました。イエスの宣教でも食卓は度々設けられます。食卓は単に飲み食いの場ではないのです。主の食卓にあずかった弟子たちを見てもわかります。私たちが囲む愛餐、そして週毎のパン裂きと杯のテーブルを思います。その食卓を取り上げ、攻撃材料にした彼らです。彼らは、ヨハネとイエス双方を非難し、自分たちを正当化する場としました。
しかし、知恵の正しさは神の子とされた者たちが明らかにします。食を断つときは断ち、また食卓で祝福にあずかるとき、それぞれ適ったときを神の子等は知っています。キリストに招かれ、この道を生きる者として知ります。神の子等が与えられたイエス・キリストに在る自由からの振る舞いがあります。ルカが導いた食卓への注目がこの後に続くドラマへの橋渡しとなります。次号で私たちが出会う、涙を流しイエスの食卓に近づいた女の物語です。