コンテンツへスキップ 投稿日:2024年7月19日/更新日:2024年12月21日

ルカ8章1-3節、主に仕える恵み

飼い主と犬の従う仕組み

8:1 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
8:2 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、
8:3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。                                              

ルカによる福音書8種1-3節

女性の同行者

前回は罪深い女とパリサイ人のなかで起こった物語に終始した。イエスの食卓に、涙を流し近づく女性と、それを裁くパリサイ人の場に福音が響きました。女性とパリサイ人のどちらが是か非ではありません。どちらにも、福音は必要です。

ここはイエスに同行する女性たちです。イエスは十二弟子を伴い町や村を旅します。神の国の福音を告げイエスが始めた神の支配を現し、新しい時代の到来を宣べ伝えます。一行に、当時としては珍しく女性たちがいます。男性にとってさえ険しい旅に女性が伴います。よほどのことがなければ女性が各地を巡る旅に同行することはないと思います。次から次へ旅し息つく暇も無かったでしょう。

女性たちの一人は悪霊や病気を直していただいたとあり、他の者たちもいろいろ困難な背景を持っていたとルカは記します。それらからの解放が、彼女たちをイエスの旅に参加させたと思う。最初は、マグダラのマリヤで七つの悪霊を追い出していただいた者です。伝説は彼女が娼婦だったと言います。

多様な困難にあった女性たちです。家の者、隣近所の人々、国の機関も解決できませんがイエスさまにより解放されました。解放されてイエスのところに行きます。そこに求めるべきことがあると確信します。イエスが説く神の国、福音の到来を聞き、マグダラのマリヤや他の女性たちに起こっていることがまさしく、神の国の到来、福音と受け止めたでしょう。

同行者の振る舞い

やがて、このマリヤはイエスの十字架の傍らにいることになります。週の初めに復活の朝を迎える女性です。マグダラのマリヤとヨハンナはイエスに出会ってから復活の朝まで伴ったでしょう。マリヤは主の復活を伝えた最初の女性です。イエスに従い続け、主の恵みの証人となります。

マグダラのマリヤのほかは、「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、」です。ヘロデはイエスの敵対者です。ヘロデとの誤った婚姻関係を持ったヘロデヤは地位を確保するため、悪を戒める洗礼者ヨハネの首を取り、権力にしがみつきます。その権力者に仕える者の妻たちがイエスに仕えます。夫が権力に仕え、妻たちも権力を求めがちです。ヘロデヤのように。

女性たちは選びません。自宅に留まりイエスに手を差し伸べません。家を去り、イエスに同行します。世間にさらされ、イエスの一行に加わります。女性たちは既存の権力にまさるイエスの権威を知ったのです。彼女たちは神の国の宣教の旅の同伴者となり、同労者の身の周りのことを支え、仕えます。

彼女らは権力を放棄し、財を賢く用います。「自分の財産をもって」とあります。財を増したい誘惑があります。富を持ち貪欲を増すことはあるでしょう。ある日のニュースで桁違いの富がからむスキャンダルが放映されました。本当のところはわかりませんから軽々に事件の是非を問うのは控えます。

それでも、報じられる富の桁からすれば、さらにとならなくてよいのでは、と凡人は思います。ほどほどでよいのです。しかし、他方で、どれだけの富でも、飽くなき欲望が湧き上がる人の罪深さを認めざるを得ません。ニュースの人だけではないのです。万人の心に潜む貪欲の罪深さです。

女性たちは富に走らず、与えられた富で主イエスに仕えます。富を施し、働きを遠巻きに見るのではありません。与えられた富を同伴者として賢明に用います。女性たちは富にまさるイエスの豊かさに従います。富を生かす御業への強い意志が見られます。与えられた祝福を生かす信仰を実践します。

ルカによる福音書の解説 戸村甚栄 伝道者 

主に仕える恵み

家庭人で、夫に仕える身で、彼女らはすべてにまさり仕えるべきお方がいることを旅の同伴者となり証します。私たちに大切な指摘をしているのではないでしょうか。それは、権力かイエスかの二者択一ではないことです。富かイエスかの二者択一ではないことです。夫かイエスかの二者択一ではないことです。あれか、これかの問いではありません。

そうではなく、イエスに従うとき、与えられた祝福、権力、富、家庭であれ何事も本当の意味で生かされる道があります。何が第一か、何が最も大切なことかを確かにすることこそすべてが生かされるということです。神が神であられることを第一とするとき、すべてのものが健全に生かされます。

夫や家族は女性たちの行動に言葉を残しません。家族、周りの人々が言葉をはさめない信仰的決断を女性たちの間にみたでしょうか。身分や富や家庭人の立場を後に旅立ちます。彼女たちの背に主イエスへの従いが見え、何人も口をはさめない、喜びと真実な姿があったのです。

福音の証人

彼女たちは、イエスにより悪霊から解放され、病を癒された者です。それだけでイエスの旅に従い続けるでしょうか。その体験で、権力を後に富を御業のため用い、家族を後ろに旅立つでしょうか。癒しはすべてを後にするきっかけになったかもしれませんが、それに尽きないと考えます。イエスの御業に与り、奇蹟を体験しても、主から離れる者は数知れません。いつの時代も起こります。癒し人イエスを認め、済めば御用無しです。

彼女たちはイエスを癒し人、都合のよい道具としか見ていないでしょうか。そうではなく、体験を通しイエスに出会います。イエスの説く神の国、福音に生きる生活に捉えられます。イエスが語り、働き始めた新しい世界に喜んで、十二弟子たちと町々、村々を巡る旅をします。十二弟子と女性たちの群れから、神の国、福音の到来の息吹が見えます。

筆者は東北、関東の群れを訪問する機会を与えられました。厳しいなかでの礼拝が続いています。そこに主イエス・キリストに忠実な女性が一人おられる不思議を感じます。主イエス・キリストと旅する忠実なる女性の姿です。神の特別な配慮、主のあわれみに驚き感謝です。主の限りない御顧みがありますよう祈り願います。

蕨キリストの教会 伝道者 戸村甚栄

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