大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。 ルカの福音書 聖書協会
たとえが導く世界
さて、と新たな展開、今まで聞いたことのない始まりです。イエスの御口から広がる新しい世界へ人々は期待をしたでしょう。何かが始まると、聞き耳を立てたでしょう。聖書を開き、みことばに身を置き、主が何をお語りになるか、何かが始まる期待を胸に、こころの耳で集中し聞く私たちにも新しい扉が開きます。
イエスの一行を聞き駆け付けた大ぜいの人々です。現状に渇き、生活の困窮に直面し、生き方を模索する人々です。ルカの置いた、さて、のことばに全身を置き、イエスのことばに集中し、自分のこれからを、みことばに賭けた人々でしょう。その願いに向かってイエスの御口が開きます。
語りはたとえです。生活に行き詰まり、ここまで来ました。聞こえるみことばにこれからが始まる思いで聞こうとしています。ここからです。ここに全く新しく始まるなにかがあると期待します。ところが、身近なことの話です。日頃見ていることから語り始めます。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。」
新味のあることではありません。ここまで来て聞かなければならない話でありません。どこにもあることです。どうして、との疑問さえ生まれたでしょう。でも、来て聞きます。ただでは帰れません。手ぶらでは帰れません。帰っても、そこには逃げ出したくなる生活が口を空いて待っています。
たとえの意図は
たとえは神の事柄をわかりやすくする手立ての一つです。大ぜいの人々が方々から来ました。様々な生業で生活する人々です。年齢、職業、社会的地位、役割、家族構成、置かれた状況も千差万別です。この群れにわかりやすさは大事です。ここに来て、得ることなく帰宅なら落胆からさらに落胆です。
例えば、神礼拝でなにも起こらなかった、得ることがなかった、持ち帰ることがないままなら失望です。ただ集っただけなら、神礼拝ではありません。そのようなことが起こらないよう願います。人々に神の事柄がわかり、神に出会い、神が生きられる信仰体験を期待します。集う者も、真の礼拝を望む備えが求められています。
たとえを聞いて「ああ、そういうことなんだ」とわかり、いくつか腑におちない点があるにしろ、難しいことではないと受け止められるでしょう。他方謎めいたこともあります。たとえのことばには、パズルとか迷わす、幻惑させる意味もあります。イエスの真理を開示する意図が、たとえにあります。
たとえを聞く
興味を引くのは落ちた種の話に注目するところです。主人公は種蒔き人です。その人が蒔く種の行く末、種がどう育つかが肝心で、こぼれた種への目線は論外でしょう。ところが意図しない地に落ちた種の話です。最後の土壌はともかく悪い土壌に落ちた種を丁寧に語ります。枯れるか、鳥の餌で終わる話です。
人々はどう聞いたでしょう。教会学校ではどのように説かれて来たでしょう。説教はどのようにされているでしょうか。このみことばがどのように受け止められ、聞かれているでしょうか。兄弟姉妹がたとえをどのように聞き、語っているのか興味があります。種蒔き人、種、土壌と焦点があります。
たとえから自分はどの土壌だろうか、道ばたか、岩地か、いばらの地か、と吟味を迫られたでしょうか。それぞれ、良くこころを耕し、素直な良いこころ、イエスの教えを聞き従う土壌になりましょう、と語ったでしょうか。わかりやすかった、良い話だったで終わったでしょうか。このように土壌に焦点を当て語ることが多いのではと思います。
良いお話を聞き、良い土壌、良いこころで蒔かれた種が成長するようにしましょう、と励まし、促すのも間違いではないでしょう。ただ、そのような場合、良い話、教訓、道徳的訓話で終わります。自己吟味で土壌改良が出来ないことを知っています。自分でこころを改善できない現実を知っています。
ルカによる福音書の解説 戸村甚栄 伝道者
イエスのもとへ
こころを変えることが出来ず人々がイエスのところにやって来ます。自助努力でしっかりできると高を括る人はイエスには来ません。自浄作用でこころの土壌改良が出来ると思う者イエスのもとにいません。
わかりやすく、腑におちそうなたとえですが、やはり落ちた種について語るのは謎です。土壌を選択しない種蒔き人などいるだろうか。良い種を蓄え、次の季節に備えたはずです。ばら蒔きはないでしょう。落ちた種に終始し、収穫が見込めないことを描写します。それはどういうことなのか、謎です。
それでいて、たとえ、の最後の部分で、良い地に落ちた種の話がでます。落ちた種の話です。そこでは、前の土壌とは桁違いの収穫があります。百倍です。あり得ない収量です。この対比は何を物語るのか、ここまでだけではわかりません。
イエスの思い
たとえで話すイエスの意図はどこにあるのでしょうか。ここで三つの意図を取り上げます。第一に、たとえは、方々から来た大ぜいの人々に普段の光景を取り上げ、そこからイエスの世界に招くためです。身近な話題で共感域を拡げ、聞き手がみこころの真理へ接近することができる配慮です。
第二は、謎から聞き手が興味を抱き、深く、自由に考えるよう導く意図です。わからないとイエスに問いイエスとの対話を続けます。謎はイエスが私たちと近くなる手段です。第三に、二と関係して、謎を問いながら、たとえの世界に入り、聞き手がイエスに応答する場に立たされることになります。
たとえでわかってほしい思いと同時に、お語りになる主イエスとの出会い、交わりを願ったでしょう。「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれたことに表われています。主イエスのみことばを聞き、主イエスに出会ってほしいことでしょう。次号は叫びを軸に、主イエスの思いを共に聞きます。