また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」 ルカの福音書8章8-18節 聖書協会
種蒔きが導くところ
「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた、イエスの叫びを再度聞きます。聞く、が最後十八節で語られます。種まきのたとえで示される真理と、聞く大切さが前号と今回の中心だと思います。聞く、ことを誤ればすべて無に帰します。「イエスは、これらのことを話しながら『聞く耳のある者は聞きなさい』と叫ばれた。」が、たとえと弟子たちへの教えを挟む位置にあるのは、聞く、大切さを明らかするためでしょう。
四節にさかのぼり、さて、で始まったわかり易いはずの、たとえ、を語りました。しかし、八節の終わりで叫ぶイエスです。なぜ叫ばれるのでしょうか。聞かないからでしょう。素通りしないでほしいからでしょう。語る内容が重要だからです。叫びから、普段の光景から認められる以上の意味が込められていることがわかります。
たとえ、を聞く者が実り豊かな土壌となるのかといえばそうではないのです。良い話を聞いたから豊かな土壌になるほど、こころは素直ではないでしょう。聞くには聞くが、いや最初から聞く気なく、聞き流すことさえあります。イエスの叫びは、聞き手に警告や注意を促し、聞いてほしい叫びです。聞くことが聞き手の生き方を定めます。
問う弟子たち
イエスに従っている弟子たちも、たとえの真意をくみ取ることは出来ません。意味をイエスに尋ねます。イエスが語られるから、日常の光景でも重要なことがあると弟子たちは知っています。彼らが普段見て知っていることよりも、知らなければならないことがあると思っています。だから彼らはイエスに問います。彼らに聞く耳がありました。それゆえイエスに問うのです。
問う者が真理への招きを受けます。群衆にはイエスが語られても、聞く者と聞かない者がいます。いつの時代も突き付けられる現実です。真理は語るお方の御口に存在するのみならず、聞き手の耳にも存在する性質のものです。ですから、聞く耳のある者は聞きなさい、とイエスは語りながら叫びます。
問いにイエスは謎のまま弟子たちを去らせません。助けを求めた彼らを、あなたがたと呼びます。他の者にはたとえで話します。そのわけは、彼らは見ても見ず、聞いても悟らない者たちだからです。たとえが謎で終わります。しかし、聞く耳のある弟子たちには直に語ります。神の国の奥義を知ることが許されています。
ルカの福音書の解説 戸村甚栄
たとえを説く
種は神のことば、道ばたは人のことです。みことばを聞いたが、悪魔が来て聞いた人の心からみことばを持ち去ることです。岩地は、聞いたとき喜んでみことばを受け入れるが、試練で身を引く人です。いばらの中におちるのは、みことばを聞くが、世の心遣い、富、快楽でふさがり実が熟するまで育たない人です。しかし、良い地、正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、思いもよらないほどの実を結ばせます。
種蒔き人はみことばを取り次ぐ者です。道端に蒔く失敗をするでしょう。岩地に蒔く失敗もあるでしょう。いばらの地に蒔いてしまうことがあるでしょう。蒔き続けます。イエスが好ましくない土壌に言及するのは、種は蒔かれもしますが、落ちることもあるからでしょう。いくつかの種は良い地に落ちて豊かな実りをもたらします。実りのちからは種にあります。
間違い、読み違いは起こります。想定外ばかりかもしれません。失敗します。しかし、蒔き続けるなら実りにあずかると、イエスは語ります。弟子たちに宣教の厳しさと励ましを語ります。種蒔き人の背を押しイエスは送り出します。神のみことばはむなしくかえることはありません。
悪魔の妨害はあり、人心の軽薄さ、不誠実さが壁になります。世で楽しみ喜ばれることが、みことばを聞くとき、いばらとなり聞く者の心を塞ぐことさえあります。しかし「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれたイエスは、たとえの最後の実りの確かさを聞き、みことばを信頼する種蒔き人であれと語ります。種蒔き人を真に種蒔き人とするのは、神のみことば、種です。
結びの三つの話
それから、イエスは三つの話でたとえを結びます。最初は、あかりをつけてから、それを隠す者はいないと語ります。キリスト者と叫ぶことはなくても、隠れることもないのです。ひかりが見える場所に置くのです。働きが隠されず、また、捜されることではありません。現れる事柄です。あなたがたは地の塩、世の光です、とキリスト者にイエスはおっしゃいます。
たとえ隠れているものでも、あらわにならないものはないのです。イエスは秘密をそのままにしておくため来きたのではなく、知られていないことにひかりを当て、明らかにするため来ました。ですから、弟子たちの業を積極的に現わし、見られなさいと促すのは当然です。
聞き方に注意
たとえの結語十八節の冒頭に、「だから、聞き方に注意しなさい」とあります。八節の「耳のある者は聞きなさい」と口調が変わります。聞く弟子たちに、こんどは聞き方に注意です。聞き上手になりなさいと促します。しっかり聞く者であれと願います。種が枯れず、実るよう、身に着くよう聞くことを促します。
聞き方に注意は、持つ者はさらに与えられ、持たない人は持っているものまで取り上げられからです。たとえを聞き祝福を自動的に受けません。求め聞き入る者はさらに与えられ、みことばの豊かさを体験します。聖書を開くたび神からの語り掛けを聞きます。新しく響き、キリストに似る者へと変え、聞いている者を新しくします。持つ者はさらに与えられ生活をします。
最後に警告です。持たない人は、聞いたみことばさえ失います。道端や岩地、そしていばらに落ちた種のように枯れます。警告が最後に置かれたのは、種を枯らさないでという、イエスの叫びです。そうあってはなりません、との叫びです。思いを振り絞ったイエスの警告です。みことばの聞き方があなたの生涯を定めます。