ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。ルカの福音書8章22-26節 聖書協会
内と外への目
イエスに会いにきた家族との出来事から、イエスと弟子たちは新たな展開をします。歩みの先に、あなたが、わたしが、人々が控えています。「人の子は失われている者を捜し、救うためにこられた。」この方が私のため来てくださったと、みことばを聞く者に、人生に迫ります。弟子たちと舟に乗り、いっしょでなければ出会わないことがあります。ですから、イエスのさそいには応答したいものです。
弟子たちに乗船を促し宣教への誘いです。不安を抱えながら従います。群衆にお語りになるイエスを見て訓練される者たちが、今は、自分たちだけの訓練です。外に目を向け、彼らが養われ、訓練される必要があることをイエスは見ます。将来への働きのためにも必要な弟子訓練です。
舟を教会としたらどうでしょうか。教会は、ときに内向き、自分たちに向き過ぎることがあります。他方、外向きにエネルギーを費やし過ぎることもあります。内、外に向くことを否定しませんが、なによりも、主イエス・キリストに目を向けることが大切です。キリストの教会はキリストに養われ、訓練されてこそ、内外に向かい健全に働きかける忠実な僕となります。
湖上の嵐
弟子たちの訓練の第一歩は湖を渡る機会を通し始まります。渡る間に突風が吹きます。彼らは水びたしになり、危険に直面します。これまでとは異なります。無防備での嵐です。筆者もガリラヤ湖で似たような天気に襲われました。こぎ出しは晴天でしたが湖の奥深く進んだとき、突如風雨が襲い、舟が揺れ、水しぶきを浴びました。弟子たちが体験しただろう自然で驚いたことを思い出します。弟子たちの体験を思い起こすには十分な突風でした。
荒れる湖上の舟のなかイエスは眠っています。それもぐっすり眠ってしまわれたとあります。そのとき危険が迫ります。水は、古来破壊的ちからを連想させました。洪水物語から悪霊の仕業とする迷信があったかもしれません。聖書の最後では、新天地が現れたとき、もはや海が消えたとあります。弟子たちは迫る危機に呑み込まれそうになり、イエスに近寄り起こします。眠っているイエス、そこに行けばなんとかなると彼らは行動します。
イエスと一緒なのに慌てふためくのです。キリスト者の現実を見る思いがします。共にいるどころか、キリスト者のうちにイエスはおられると信じているにもかかわらず、慌て、戸惑います。キリストの弟子と呼ばれる者の姿を湖上の弟子たちは代表します。舟のなかに私たちはいます。人生の波風に恐れ、水しぶきに呑み込まれそうなとき、その都度イエス・キリストに呼び掛けます。呼び掛けてよいのです。私たちはイエス・キリストの弟子です。
ルカの福音書 戸村甚栄
嵐をしかる
「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」イエスを起こし緊急事態と訴えます。寝ている者への言葉でありません。かまわず呼び起こします。寝ている者をたたき起こすようなものです。イエスは起き上がり、弟子たちをお叱り、咎めません。彼らを恐怖に陥れている風と荒波をしかりつけます。おさまりなさい、ではなくしかります。自然へのことばでありません。嵐の背後の、滅びの底に引きずり込むものに対する、イエスの主権の行使です。
しかりつけた後、即座に湖は静かになります。弟子たちは安堵し、湖の変わり様に唖然とするばかりでしょう。イエスの支配が出来事を通し明らかになります。自分たちではいかんともしがたい嵐をみことばで治めたのです。荒れ狂った湖がみことばで瞬時になぎとなります。驚きを超える言葉が弟子たちの間を走ります。恐れです、疑いではありません。危険回避できたのに、まだ恐れです。嵐への恐れは既に取り除かれました。
驚き恐れが対で表わされます。湖上で見えた恐れです。嵐の湖でぐっすり眠り、起き上がるや否や、風に、荒波にしかり治めたイエスの姿に恐れたのです。神の気配を感じたのです。それを伝えることも出来ず、彼らは互いに言ったのです。彼らの間に問いが続きます。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」導かれるまま従ってきた、この方は誰か、弟子たちの関心ごとです。答えは見つかりません。
宣教への導き
だから、イエスは彼らを宣教の旅に招きます。訓練は宣教の手段、方法の学びが第一でありません。第一は、イエスを見、この方がどなたであるか発見することです。宣教の源はイエスにあります。湖上でイエスは弟子たちに何か教えるようなことはしません。ご自身を見せるだけ、と言ってよいでしょう。弟子たちは真に恐れるべきお方を知ります。宣教は主の御業に驚き、神への畏れで前進する神の事業です。宣べ伝えるイエスを見ます。
あなたの信仰はどこに
イエスは問います。「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」あなたがたの信仰はどうした、と言ってるでしょうか。わたしについて来たので、あなたがたの信仰が育まれるのに十分なはずです。それなのに、あなたがたの信仰はどうしたのか、と問っているでしょうか。あなたがたに信仰があれば風も荒波も静まります、と𠮟咤激励のことばをかけているでしょうか。
そうではなく、イエスの言動を見聞きし驚き恐れる弟子たちに、あなたがたは風や荒波以上に偉大な出来事の証人です。わたしのことばを聞き、わたしを見て信頼しますか、と問います。問いは、あなたの信仰はわたし、イエスにある、とはっきりさせます。わたしはさらに偉大なことを成し遂げます。わたしを信じなさい、と御業への招きのみことばです。こうして、訓練は、ガリラヤ湖の向こう側のゲラサ人の地方へと展開します。