荒野の試みと私
前回御子イエスに挑む悪魔の誘惑と主イエス・キリストの闘いに注目した。主イエスが向き合った事柄は、キリスト者にも及ぶことです。誘惑も闘いもありませんと言うなら、それが問題ではないでしょうか。今ある誘惑、闘いに気付かせていただかなくてはなりません。主イエスは、「わたしたちを試みに会わせないでください」と祈りました。新共同訳では、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」です。
主イエスが示された事が誘惑に直面する者の闘いのヒントとなることを願います。荒野の誘惑は文字通り荒野だけの意味でないでしょう。世界が眼前にあり、最後の誘惑は神殿です。共通するのは誘惑が主イエスお一人のところであったということです。荒野は孤立無援の場です。そこでの誘惑の手口は園の状況と似ています。誰もいない孤立無援のとき誘惑が強まります。
信仰共同体の必要
信仰共同体である教会の部分とされることは大切なことです。キリストのからだの部分となることは選択肢ではありません。必要不可欠なことです。神が配慮し、信仰者を誘惑から守る霊的シェルターともいえます。霊の家族を大事に霊の闘いを進めることをあらためて教えられます。
主イエスがかしらである信仰共同体から遠のくとき信仰が弱まり、信仰者が教会から剥ぎ取られる悲惨が起こります。教会側、去る側、どちらにも言い分はあるかもしれません。しかし、集いを諦めることは、悪魔の手に堕ちることに気付かなくてはなりません。人に解決出来ないことがあります。悔い改めつつ、主に向かい、問い、歩ませていただかなくてはなりません。主イエスに語り、互いに語り合い、主の導きに委ね、主に望みを置きます。
共同体の重要性と同時に痛みを加えなくてはなりません。誘惑や試みがときには共同体内から起こるからです。主のテーブルに招かれた弟子の中にいました。他の者はどうでも、わたしは死んでもついてゆきます、と宣言した者がサタン呼ばわりされたこともあります。誘惑時の支え、励ましとなる共同体のなかに誘惑の手先を送る悪魔を軽んじることはできません。
誘惑の機会
誘惑は宣教開始直前に襲いました。これから満を持し始めようとするときを狙い撃ちします。御業の志を襲う誘惑です。誘惑は弱さのなかより、強さのなかで襲うことがあります。強さ、正しさを誇る者に迫る誘惑です。自分が強いと勘違いしたときこそ誘惑者の好機です。聖書の中でもダビデをはじめ、強い立場の者が誘惑から罪に陥った例は事欠きません。傲慢の背後、世の強さの背後に潜む誘惑を忘れてはならないことを教えられます。
他方、主イエス・キリストの闘う場面は、四十日四十夜断食したところです。荒野で他者と断絶した世界です。そこで肉体的、心理的弱さにあったと思います。限界状況が試練の場、誘惑現場でした。志が確かでありながら、肉体の危機を迎えるとき誘惑が強化されます。強いとき、弱いとき、いついかなる状況にあっても誘惑し、貶めようとする闇の力があります。
ルカの福音書シリーズ 戸村甚栄伝道者
誘惑との闘い
その中、私たちは主イエスの闘いをみことばから聞きます。三度の誘惑にご自身が知恵を出し、誘惑を覆すことは十分すぎるほどちからある方です。しかし、そうはされませんでした。私たちの闘いは、先ず自分が誘惑に対応しようとします。そして、誘惑に入り込むギリギリになり主よ、と祈り始まることが多いではないでしょうか。さらに良くないことは、誘惑者の手に乗り痛手を負い、そこから主よ、と祈り願うことです。
御子イエスは、誘惑で父なる神に聞きます。誘惑のことばが聞こえるとき、こころを開くのは、みことばにです。誘惑のみならず、あらゆる生活場面で聖書の位置が重要です。生活の軸です。世代間の信仰の継承が難しいなかで、なお諦めず、むしろ確信的に、聖書が生活の軸となることを主張し、歩み続けることが求められます。この国だからこそ生きる聖書が問われます。
主イエスの闘いを通し、なお示される真実は、闘う現場で聖霊なる神の力が明らかにされたことです。厳しいなかで神の力がみなぎり、神の真実が力強く貫かれていることです。一度、二度、三度と襲う誘惑の度に、神のみことばが、神が誘惑者をはねのけます。主イエスは、神のみことばで闘い、その力を現し、いのちとなり、生き方を実証しました。
主イエスの闘いから、みことばが私たちの生活で血肉となることが示されます。悪魔さえ聖書を悪用しイエスを誘惑します。私たちはみことばを知り従い、生きることが求められます。全存在でみことばに聴き生きることが期待されます。父とわたしは一つですと告白した主イエスこそ、みことばと私たちのあるべき関わりを示します。
主イエスは罪を知らないお方として私たちと同様、あらゆる苦難を体験されました。誘惑も私たちが経験しえないとこで闘ってくださいました。私たちが受ける誘惑は主イエスに比較すれば取るに足らないでしょう。だからと言って軽んじません。主イエスは先んじて誘惑と闘い、誘惑の根源と闘い勝利しました。どのような誘惑も、私たちの信仰の息の根を止められません。
誘惑は続きます。みこころが天でなされるように地でもなされますように、と祈りを教えてくださった主イエス・キリストのミッションが成就するまで。荒野は変わり誘惑の手口は変わります。キリストの霊により、みことばを聞き、父なる神を信頼する者でありたい。そのような主の証人とされたい。