キリストが生まれた日

ルカの福音書2章1‐7節。キリストが生まれた日。蕨キリストの教会 戸村甚栄 伝道者の寄稿です。                  

先ず仰ぐお方

神は敵をも用いられるとの発言を聞いたことがあります。事実をついたことばではあるが、その表現があまりにも明確だったので、ギクッとした記憶があります。すべてを治め、支配し、導く万能の父なる神を知る者には、当然と言えます。しかし、万能の父なる神をこころに留める前に、周辺で起こる敵の行動に面食らい、とまどい、神の支配を疑うことはないだろうか。神は敵をも用いられるが、その敵に私たちが対峙しようとし、敵の手に堕ちてしまう。アダムとエバが向いた方向が罪と死を世界にもたらしたことを、私たちは知っています。彼らは神の敵に対峙はしなかったが、敵に向いたのです。それで敵の手に陥り、滅びます。敵に向かい、対峙する以前に、私たちは見上げるお方がいることを忘れてはなりません。敵に打ち勝つ主がおられる、いや勝利したこのお方のみを仰ぐのです。

イスラエルの敵、支配者である皇帝の命令により不自由な民を通し、神はみこころを成そうとします。環境が整えられ、理想的な状況で神の御計画が進んではいません。圧政下で御計画が進みます。状況からすれば、とても光が射すようなものではありません。失望と落胆、意気消沈の生活と言えるでしょう。明日が見えない生活です。約束された地にありながら、その生活がおびやかされ、牛耳られます。エジプトから解放され、荒野放浪の果てにたどり着いたミルクと蜜の地であったはずの、この地が新たな圧迫下の生活です。アブラハム、ヤコブ、ヨセフの神はどこにいますか、と叫びたくなる状況です。しかし、この敵の支配下、苦難の中みこころは進みます。人から見れば万事休す、逃れの道が無いようでも、神にはいつも突破口があります。神の歴史が生きます。

時に働く神

さて、「そのころと」、ことわり時代を特定します。そして、ローマ皇帝が神のご計画のなか用いられます。皇帝の名のもと全世界の住民登録の命令です。皇帝の命令で、クレニオ総督による最初の住民登録となります。国威の確認、国税対象の明確化、支配を磐石にしようとする策であったと想像されます。それは支配者の意図であったとしても、神はその施策を用い、みこころを成そうと御計画を前進させます。命令で人々はみな登録のため自分の町に向かいます。他国支配に抵抗出来ない民です。人々はみな、であります。誰も抵抗出来ず、皆命令に従います。言われるまま自分たちの町に帰り登録をします。そのような時代の空気のなか生活すると、言われるままに動くことが普通のことになってしまうのでしょう。抵抗した者もあるいは居たかもしれませんが、ここでは皆命令に従います。

先の大戦に突入してゆく過程で、あの時代の空気は戦いの方向に動き出し、誰も止められない様相であったと聞きます。時の流れに抗する者もいるが、その時代に染まると、大勢は流れにそって突き進むことになります。そのように進むことが当然となり、そうでない者は反逆者のレッテルを貼られる時代です。時代の空気は人心を酔わせ、狂わせ、あらぬ方向へ流します。あげくの果て、狂気の時代の責任を負う者は一人も現われず、時のかなたへ消えます。自国がもたらした世紀の大罪です。ここでは他国がイスラエルを支配し、命令し、住民登録を徹底させます。この行為の最終責任者が皇帝アウグストであると明記されていることは責任不明、あやふやなままで事を動かすこの国の在り様と比較し、自戒し見習うべきことです。

ヨセフとマリヤ

ルカの福音書2章1‐7節

ヨセフもナザレからベツレヘムというダビデの町に向かいます。彼の家系であり血筋でもあったからです。すでに、身重になっていたマリヤもいっしょです。いいなずけの妻マリヤと表現しています。なんとも不思議な表現です。いいなずけ、であれば未だ妻とは言い難いでしょう。妻であるなら、もういいなずけとは言わないでしょう。常識では同列しない言葉が繋がっています。いいなずけの妻マリヤ同伴で、ナザレからベツレヘムへと旅を進めるヨセフの思いはどのようなものであっただろうか。いいなずけ、としてなら、いいなずけであってほしい、とハッキリとしたいのが人の都合です。妻なら、妻ですとハッキリしたいのが、書き手読み手の願いでしょう。いいなずけ、そして、妻のどちらかにしてほしい、そうあるべきだと決め付けたがるのも人の習性です。しかし、神の配慮は、いいなずけの妻マリヤです。

いいなずけの妻マリヤと表現する直前に、さらにショッキングな事実が記録されています。身重になっているとあります。いいなずけの妻は一体どのようなことなのか、その上、すでに身重になっています。夫婦の約束があったとしても、未だいいなずけです。それにも拘わらず、身重になっています。どのようなことにしても、そのまま読み過ごしてしまえばなんのことはなく素通りしてしまうかもしれません。しかし、ルカの記述ははっきりと、身重になっているいいなずけの妻マリヤとあります。ヨセフとマリヤが抱えた思い、そして、不思議な状況です。二人に起こったことは人間的に見れば堕落したことであったが、神のご計画であり、働きです。身重になっているいいなずけの妻マリヤと記述された二人は神の御業のなかを歩みます。

ここに信仰があります。周辺状況から事柄の是非を神に問うのではありません。自分の理解や感じ方で事柄の真意を神に問うのではありません。そうではなく、みことばを先ず聞きます。みことばのひかりに照らされて自分の理解や感じ方を治めます。みことばに先ず聞き、みことばに照らされて周辺で起こっている事に目を向けます。先ず神に聞き、置かれた状況を受け止めてゆくことこそ信仰者の姿、歩みではないでしょうか。ヨセフにしてもマリヤにしても自分たちに起こっている事柄を、自分たちなりに解釈し、神に問うようなことであったら、身重になっているいいなずけの妻マリヤとはならなかったでしょう。あまりにも世の常識からはかけ離れたことだからです。しかし、先ず主なる神に聞きます。聞いて従います。そのとき初めて神の御業が二人の人生に深く刻まれ、進展してゆくのです。

御子の誕生地

ベツレヘムにいる間にマリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。ベツレヘムはいまでこそ、観光客が頻繁に出入りする街ですが、当時は寒村と言われるほど寂しいところであったようです。前にベツレヘムを訪ねたことがあります。パレスチナ政府の管轄下にあり、イスラエルとは雰囲気が異なっていたことを思い出します。イスラエルからベツレヘムには曲がりくねった鉄格子の通路を通り抜けてゆきました。治安のための処置が幾重にも取られていました。鉄格子を抜けると、お土産屋が二軒ありました。ベツレヘムにあやかった品々が陳列され、観光客に売っていました。二千年前、出産間もない女性の枕する場所が無い、寂しく、冷たく、外部に閉ざされたベツレヘムとは大分異なっていました。当時のベツレヘムではマリヤとヨセフは、飼い葉桶に幼子を寝かせるしかありませんでした。

これも不思議なことです。当時男の子と言えば家系の要として重んじられていた筈です。そうでなくても新生児誕生となれば、家族も当然のことながら、地域ぐるみで喜び祝うことではないでしょうか。バプテスマのヨハネの誕生では人々は喜びました。それが、どうしてここでは親類縁者、地域の人々から見捨てられたようにして誕生があったのでしょうか。布にくるんで、飼い葉桶です。横たわる場所も異例ですし、くるんだ布も決して新生児にはふさわしいものではありませんでした。他国支配で苦しむイスラエルに訪れた幼子です。冷遇され、あたかも無き者のように扱われ、家畜同然の場所に追いやられます。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」そればかりか、幼子を地上から消し去ろうとする動きさえあります。まことに、マリヤが宿し、ベツレヘムで産んだ初子にはふさわしくないところです。

真のふさわしさ

この何からなにまでふさわしくないところ、ふさわしくない世界に来られたのです。ふさわしい場所を探して、ふさわしくもてなされ、ふさわしいところに落ち着くために来たのではありません。ふさわしくない場所になってしまった世界に来たのです。そのために来られたのです。

他方ベツレヘムの人々や他の旅人は宿屋でくつろぎ、彼らなりにふさわしい生活をしています。イスラエルを支配している帝国の者たちは彼らなりにふさわしい勤めをしています。世界はそれぞれふさわしいと思う生活を求め、ふさわしいと思い生きます。諸教会もふさわしいと思うところを忠実に守り、活動しています。それぞれのふさわしさを自分流にこなし、変わることなくふさわしいと思うまま在ります。このふさわしさは、実はふさわしくないではないかと問うこともなく、自己批判することもなく、変革されることもなく、慣れあったふさわしさにあぐらをかいているかもしれません。

政治的にも、社会的にも、人間としてさえもふさわしくない扱いを受けた幼子を覚えることは極めて大切なことです。私たちの手作りのふさわしさは、真のふさわしさへの道筋ではないことを知るべきです。最もふさわしくない扱いを受けた方にこそ、私たちの真実なふさわしさを見出す鍵があることに気付くことが大事ではないでしょうか。幼子は神のふさわしさに身を置き、世に訪れてくださいました。私たちの幻想のふさわしさから目覚め、真にふさわしい者となる道筋を整えるためにです。

「宿屋には彼らのいる場所が無かった。」家族の居場所が無いのです。居場所を見失っている者は多い。しかし、幼子となられた主イエス・キリストのいる場所こそ、私たちの居場所であり、私たちがふさわしい者とされるところです。そうではないでしょうか。ですから、たとえ野であれ、山であれ、砂漠であれ、街であれ、寒村でも、あなたが歩んでいるどこにでも、私たちの自前のふさわしさを突き破り、私たちの真の居場所、ふさわしさを切り開く幼子が寒村ベツレヘムに訪れたことを賛美し続けます。

蕨キリストの教会 戸村甚栄 伝道者

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