その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 ルカの福音書 2章8ー20節 聖書協会
ふさわしくない世に
ベツレヘムでは幼子誕生を迎えた家族に居場所がなかった、と記した。世界がこぞって祝い、迎えるこの季節にはふさわしくない始まりです。幼子は居づらいところ、居場所を確保出来ない世界に訪れます。状況は今日も変わっていない。クリスマスを祝うが、祝う人々の魂に幼子は住まわれているだろうか。教会堂の真ん中に幼子はおられるだろうか。集う群れの世代から世代に幼子は生き続けているだろうか。高齢化、後継者不足の諸教会には幼子の居場所が確保出来ているだろうか。
最近聞いた話だが、ある説教者が教会に招かれ説教を依頼されたそうです。その説教者は会衆の願いを聞いたそうです。彼らは、特段なにもありませんが、高齢化した自分たちが召されるまで説教をしてくれればそれだけで満足です、と言われたそうです。説教者は教会の依頼をお断りしたそうです。今でも居場所無きかのような世界に来てくださった幼子です。それでも来られた幼子の出来事を見てゆきます。
誕生を聞いたのは野宿し羊の番をする者たちであったことは何を意味するでしょうか。神の御業は世の常とは異質です。訪れの様子からして、世界が度肝をぬかれるような事件です。神が人となる事件です。私たちの救いのために、救い主が生まれる事件です。この方こそ主キリストです、と福音記者は告白します。このお告げ直前には主の栄光があふれ恐るべき事態になっていたのです。そうでありながら、誕生告知の場所は野原です。都市の中心ではありません。権力の中心でもなく、宗教のメッカでもありません。
人目が惹かれるところではありません。世の脚光をあびるところでもありません。世界のあらゆる力が集中するところでもありません。財なく、権力なく、地位なく、大衆がうごめくところでもありません。過疎も過疎、街から遠く離れたところで御告げがありました。人が住まず、羊が草をはべるところです。そこで夜通し働かなくてはならない人々への御告げです。それだからこそ、良い知らせが真に彼らの良き知らせとなります。
誕生の見栄えは
地理的にも、社会的にも、心理的にも、誕生の告知が一番届きにくいところに御使いが来ました。主イエスの訪れがそうであるならば、主イエス・キリストのからだなる教会の見栄えはどうだろうか。世の光、地の塩とされた者たちの共同体です。しかし、それは世が見栄えを誇り、目立つ存在とは同じではないと思うのです。幼子誕生に世界は目もくれませんでした。この視線はどの時代も同じではないでしょうか。誰も見たくもない、関心をよせない、それが世ではないでしょうか。その冷たい視線がユダの地に蔓延していたことは驚きです。今日では御名をとなえる人々が、祝い事で忙しく、楽しみ浮かれ幼子誕生のメッセージに振り向かないことでしょうか。
神の民と自称する人々が、幼子誕生に無関心であっても、御使いが訪れた場では驚き、恐れが起こります。神のみことばを聴く者たちは驚き、恐ろしさを抱きます。羊飼いたちは一人ひとり持ち場を守り働き、互いは遠く離れていたでしょう。みことばを聞くこころがあったでしょう。他のだれかが聞いたから、周りのだれかが聞いているからではありません。野原に立つ一人、わたしへのみことばとして聞きます。見栄えを求める者たちが見ることが出来ない、神のご臨在、その栄光を見ます。
人の思いではなく
幼子の誕生は、人の希望、願いで起こったこと、人が描く出来事ではありません。その真実をみことばにより、神の出来事で世に突きつけます。今、みことばに聞き主イエスの訪れを迎えることは、年の瀬特有の迎え方とは異なります。みことばにひたすら耳を傾け、みことばに集中し聞き入り過ごすことです。諸教会で起こる礼拝の集中が私たちの幼子誕生の迎え方です。
人が描く幼子誕生物語ではないことを改めて受け入れるべきです。人が描く、期待する教会の営みを吟味し、その描きはもしかして間違っているのではないかと問うことも大切です。主イエスの出来事はただ、唯一みことばに聞くときに現れてくると信じ、時代の波に飲まれず、神の出来事、栄光の真実を世に明らかにしたいものです。
恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、天の大軍が現れ、この天使と共に神を賛美して言った。「いと高き所には栄光、神にあれ地には平和、御心に適う人にあれ。
ルカの福音書2章10-14節 聖書協会
賛美は羊飼いたちが夜通し働く、野原で響きます。賛美の内容からすれば、なんとも場違いです。もっとふさわしい場所があるのではと思います。しかし、賛美は静けさが漂う野原です。誰がこのような場所でこのように歌えるでしょうか。誰がこのような出来事を、原っぱで起こすでしょうか。誰も思いつかず、演出できないのです。ところが季節が来ると演出しようとします。それが大きくズレていることに気付かず。この季節は、むしろあらゆる手を止め、静まって御使いが語る出来事のことばをひたすら聞くべきでしょう。
羊飼いたちは
神の栄光の輝きはマリヤとヨセフの場所ではなく、野宿していた者たちを包みます。羊飼いたちは御使いのことばのまま動きます。主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来ようと急いで現場に行きます。職場を放棄し、みことばを聞いたまま、ベツレヘムに急ぎます。聞いて直ぐ行動するとは限りません。とまどい、疑い、迷うでしょう。しかし、彼らのこころは澄んでいます。御声に聞き従いました。彼らは飼葉おけに寝ておられるみどりごを探し当てます。洞窟に飾りもなにもありませんでした。でもそこで見たのは、みことばの通りのことでした。
幼子に会う前、野原で聞いた出来事を羊飼いたちは人々に知らせます。マリヤとヨセフの他も聞いたようです。聞いた人々はみな、羊飼いの話したことに驚きます。推測のまま驚きの幾つかをあげます。羊飼いに御使いが現われたこと、宗教家にではないのです。野宿をしながら働く場に御使いが現われたこと、エルサレム神殿ではないのです。神のご計画が野原の羊飼いに告知され、御使いと天の軍勢が賛美します。天上の賛美が羊飼いの現場で起こります。そして、なによりも驚かせたのは、救い主の誕生、主キリスト誕生の知らせです。告げ知らされたのが羊飼いと知った時、人々はあり得ないと思ったでしょう。さらにメシア誕生を聞いてはただ驚くばかりです。
母マリヤと羊飼いの行く先は
マリヤは異なりました。出来事のすべてを心に納め、思いを巡らします。かつて、御使いによる受胎告知を体験しました。告知の御業が進み、みことば通りにことが起こります。驚き一切を導く神への畏れがあったでしょう。神の御業が羊飼いたちによって公にされます。マリヤ個人の出来事だけではなく、民全体のために起こったことを確信します。そして、「救い」に犠牲が伴うことを知り、幼子が自分より早く逝くことを胸に刻んだのかもしれません。だから、すべてを心に納め、神と対話し、思いを巡らします。
羊飼いたちは出来事が全て御使いの通りであったと驚きます。彼らは、見たことと、みことばを丁寧に照らし合わせ、ことごとくその通りであったと告白します。みことばを聞き、御業を忠実に見守ったのです。だから、その通りであったと感嘆し、告白せざるを得なかったのです。
その驚きのまま神をあがめ、賛美しながら帰ります。野の働き人が神を賛美する者に変わり、礼拝者となります。羊飼いたちは見てこようと誘い合いマリヤとヨセフのところへ向かいました。そして、帰ります。どこへ行ったのでしょうか。羊達のところかも知れませんし、家族が待つところ、街かもしれません。そこで、野原で起こったこと、幼子誕生を語ったでしょう、だから、今日、私たちが聴くルカ福音記者の記事があります。
みことばに聴く神の民に、祝福が、主の栄光が注がれますように。
- ルカ2章34-40節。主イエス様の成長
- ルカ2章21-33節。律法の下の御子
- ルカ2章8ー20節。羊飼いと天使
- ルカ2章1‐7節。キリストが生まれた日
- ルカ1章57-66節。先駆者ヨハネ
- ルカ1章46-56節。マリアの賛歌
- 外部リンク ルカ福音書1章46~56節 賛美に生きる