ルカの福音書2章。律法の下の御子

律法の下の御子 聖なる律法のもと 

幼子の歩みはモーセの律法に添い始まります。マリヤとヨセフの加護で、父なる神の律法により聖別され、律法の中で育まれます。律法は敬遠されがちです。しかし、律法は神からのものです。律法は聖なる良いものです。幼子とマリヤ、ヨセフは律法に従いました。ただ、律法の行いで救いを得ようとする律法主義は拒否します。律法のもとで幼子がお生まれになったことが物語ります。それは律法では不可能なことがあるからです。

律法の行いに命懸けのパリサイ人、律法学者たちが幼子誕生のいきさつを知ったら、「もってのほか」「ふしだら極まりない事」「けがわらしい」と断罪したでしょう。律法主義者の彼らには気にくわないことばかりです。しかし、その彼らのためにも幼子は来てくださいました。律法では不可能な時代から、別の時代へ導くために来られました。

今回の箇所で律法に関わる事柄が五回あげられます。律法の授け主に従い、誕生前に与えられた名を幼子の名とします。幼子が後に、「律法を破壊するためではなく、成就するため」と宣言したことからも律法への姿勢が明らかになります。律法の主である父なる神を愛し、従うことが食物と告白します。この律法の目的は、私たちをキリストに導き良い業を成すためです。律法は真の道への道しるべ、神の啓示、みことばです。

シメオンの賛歌

ルカの福音書2章21~33節

律法に従う御子の両親は神殿で仕えるシメオンに出会います。喜びと感謝に満ちます。みこころに在る賛美です。両親も、シメオンも義務やお勤めで神殿にいたわけではありません。神を愛し、律法に従い、神殿にいます。そうから、こころからの喜び、感謝、賛美があふれ出ます。

説教者が招かれ初めての教会堂へ向かいました。途中清楚ないでたちで包を持ち足どりも軽やかに歩くご婦人を見ます。教会堂に向かっている、と瞬間的に感じたそうです。この方についてゆけば迷うことはないと思い、ついてゆきます。途中見失ったが会堂に着いたらご婦人がいたそうです。もう一人のご婦人は、礼拝前に献金としていつも新札を用意したそうです。ご主人が用意した献金をわざわざ新札に変えていたそうです。これを聞き心動かされました。御前で礼拝するときには、このようでありたいものです。

さて、幼子を抱き上げた者の告白です。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」主がシメオンに賛美のこころ、賛美の唇を与えてくださったのです。もう思い残すことがありません、「私の目があなたの御救いを見たからです。」幼子が私たちの罪の代価として捧げられるのを見たのです。

幼子をどれだけ待ったでしょうか。待つ間は試みのときでした。そのなか神殿奉仕を喜び待ちました。幼子が両親に連れられて来ました。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」どれだけ待ったのか一言もありません。感激は訪れた御子、主のゆえに起こります。シメオンの救いで終わりません。「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」讃美に異邦人、神と無関係と見なされた人々も加えられます。

ルカの讃美

異邦人ルカが記すシメオンの賛美です。万民があり、異邦人が取りあげられた賛美はルカの賛美となり、身をも震わすいのちの喜びの歌となります。当時はペンもなく紙も無い時代です。動物の皮に時間をかけ、思いを込められて刻まれた歌となったでしょう。その讃美が今日も響きます。

世界の歌を束ねても御名にふさわしい讃美とはなりません。それでもこころに讃美を閉じ込めて置くことは出来ず、主の愛の広さ、深さ、高さ、大きさが万民を、異邦人を照らすと告白します。異邦人を照らす啓示の光です。神とは無関係と見なされた者、また、神とは無関係と強情を張る者たちへ主はみことばの光を照らします。地上には暗やみが拡がり、望みが消えそうな世で、たとえ天地が滅んでもみことばは滅びません。みことばの一点、一画もすたれることがありません。すべての民をみことばの光は照らします。

賛美がシメオンの神殿体験で終わらず「御民イスラエルの光栄です」と賛美が閉じます。ユダヤ人と異邦人の壁は崩壊し、みことばを聞く者たちすべてが救いの栄光を仰ぎます。シメオンの賛美を聞き、御子の両親は神殿で起こっていること、告白に驚いたでしょう。もう一つの驚きは、救いが律法の行いではなく、幼子に見たことです。律法のもと誕生した幼子に救いがあります。律法から新しい時代への狭間で誕生した幼子を賛美します。

蕨キリストの教会 戸村甚栄

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