戸村甚栄 伝道者によるルカの福音書の解説です。
イエスの系図
イエスの系図を一文字一文字辿り読むには忍耐が必要です。時々馴染みの名もありますが、初めて聞くような名がほとんどです。マタイによる福音書では最初に系図があり、そこで読み進むことを断念した、と聞くことがありました。しかし、イスラエルの民にとって系図は、神に選ばれた根拠、民族の土台です。眠気をもたらすでは済まない、大切な歴史的証言です。
系図のためにルカは主イエスの母、マリヤからいろいろ聞いたでしょう。シリアのアンテオケ教会の人々からも聞いたかもしれません。パウロに同行した折に確認したかもしれません。ダビデ王家の資料に目を通したかもしれません。異邦人ルカが、神のご計画を選ばれた人々の名を忠実にたどり、記録します。救いの御業を前進させる、神の計り知れない愛をおびての業です。
イエス誕生と公生涯への備えが先んじ、その後に系図が置かれたのはユダヤ人マタイとは異なり、ルカ特有の扱いです。マタイではアブラハムから始まり、ダビデが主張され、捕囚が一つの区切りとしてあげられ、キリストに帰結しています。信仰の父アブラハムに敬意と誇りを喚起する始まりは、イスラエルの民の心を強く意識したマタイの固有性と言えます。
他方、ルカは系図を特定の歴史的事実で区切りません。歴史家ルカとしては、ある特定の名や時期についての出来事や解釈を挿入してもよさそうだが、そうではありません。名が連なるだけです。ただ、始まり方にルカならではの特徴がみられます。
系図が置かれたところ
なぜ福音書の冒頭ではなく、ここでしょうか。バプテスマのヨハネが登場し、イエスの誕生があり、バプテスマのヨハネによるイエスの水没から公生涯が始まろうとしているところでの系図です。ルカのネライは過去の経歴より、これから開始するイエスの御業の土台に力点をおいたと読むことが妥当ではないかと思います。イスラエルの民としての血筋より、これからの公生涯の始まり方に注目点があったということです。
始まりの言葉に「人々からヨセフの子と思われていた。」ヨセフは養父であり実父ではありません。ですから、思われていた、とします。そして、ヨセフはヘリの子であると、ヘリはマリヤの父です。そして、これ以降マリヤの血筋で系図が進みます。系図の習わしは男系で記録されます。ですから、マリヤの代わりに、マリヤの父を最初に置き、歴史をさかのぼります。イエスはマリヤの子の代わりに、習わしに従いヘリとします。
ヘリの子イエスの系図がさかのぼってゆきます。数多くの人々の連鎖からイエスのご誕生があったことが一目瞭然です。一人の者が身通すことができない時間を経て辿り着いた出来事をみるとき、歴史の神を知ります。御霊の導きがなければ記録は成立しないことを示されます。この歴史を描き、切れ目なく導き、実を結ぶのはただ歴史の支配者なる神です。
神のまなざし
人々の連鎖に神のまなざし抜きではつながりになんら意味を持たないことを教えられます。系図のように長い時間軸だけでなく、一人の限られた歴史のなかでも言えることです。神のまなざしに見る歩みに真の人生の意義や価値があります。ある神学者の言葉を思い出します。「今のときは、唯一神の御前にあるときの今で、真実の今です。」真実の今、そして、恵みの今は、神のまなざしに在る者のとき感覚です。神と関わる者が持つ真実の今です。。
イエスはヘリの子と置き換え、マリヤの子であることを暗に示します。その後、気の遠くなるような時間軸で神の導きが表されます。この事実から、私たちを決して見捨てない神が明らかになります。もう一つは挙げられる名がイエスに直結していることです。イエスはヘリの子、イエスはマタテの子、イエスはレビの子、イエスはメルキの子、・・・です。そして、イエスはアダムの子、で一端閉じます。ここまでイエスは人の子であることを記録します。イエスは・・・の子、は罪の贖いの犠牲となる御計画の現われです。
さらに、アダムまでさかのぼり記録したルカの真骨頂は、この系図は全世界、全人類に関わることを宣言したことです。人となられた御子イエスが全世界のためであることを、アダムの子と記録する一言に込めたルカの思い、世界観が伝わります。この福音は、アフリカ、アジア、南米、全地に生きる人々への良き知らせです。ユダヤ人にも、異邦人にも分け隔てなく、あらゆる壁を打ち砕き宣教される福音が、イエスはアダムの子で宣言されます。
系図の終わりが意味すること
そして、最後の主張点です。新改訳聖書では三十八節の終わりで、「アダムの子、このアダムは神の子である。」で閉じます。しかし、文体としては、「イエスはアダムの子、イエスは神の子。」となります。アダムの子であるイエスの人間性からカンマを置き、次の神の子は全く異質なイエスの本質を述べます。「アダムの子、このアダムは神の子である。」の訳文ならば、人類みな神に似せて創造されたと理解します。人類が神の創造により、神に似せて創造された、神の申し子であると記す福音記者に感謝します。異邦人、神とは無関係な者とされた者には溜飲がさがるエンデングです。
ただ、ルカは読み手がどう自己理解をするかではなく、イエスご自身とイエスのこれからの公生涯に関心があります。アダムの子と神の子の間に置かれたカンマの意味を問うと、アダムの子、までは被造物のかたち、人となられたイエスです。そして最後の、神の子は、イエスは神の子です。イエスは創造主なる神です。名を連ねた先の人物たちとは全く異質な存在、創造主である神その方であるということです。イエスの公生涯の開始直前に福音記者は、イエスは全き人であり、神です、と宣言します。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、自分を卑しく、死にまで従い、実に十字架の死までも従われました。」(ピリピ書第二章六―八節。)