イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」ルカの福音書4章14-22節 聖書協会
故郷の会堂で
主イエスは荒野の誘惑者と向き合い、父なる神のみこころに委ね試みに勝利します。誘惑者を退けこれからの宣教の確固たる開始宣言をします。荒野の戦いは、これからの宣教の険しさを示唆しています。
バプテスマにあずかり古い自分に死に、主イエス・キリストとともによみがえり、新しい者とされたキリスト者の歩みが始まります。主イエス・キリストの弟子として新たな一歩が始まり、その道に荒野があります。険しくても、救いの喜びに生きる新生の道が始まります。
イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」ルカの福音書4章14-22節 聖書協会
荒野から主イエスは御霊の力を帯び、ガリラヤに帰ります。誘惑者からの勝利の余韻に留まりません。御霊の力を帯び宣教開始です。南部の荒寥としたユダに比較しガリラヤ地方は緑が濃い地帯です。野や丘で、旅の途上で教える場面があります。ユダヤ教の会堂で教える機会も多くそこには、神を畏れ、みことばに親しむ民がいます。
旅で主イエスの御教えを聞く幸いがあります。しかし、「会堂で」とあります。今日なら教会堂です。「イエスは、彼らの会堂で教え、」がキリスト者にとって特別な響きをもつでしょう。信仰の個人主義化、会堂に集うかどうかを個人の選択としがちな時代、会堂が空になってしまいかねない危機的状況の時代に、「イエスは、彼らの会堂で教え、」の意味は重いものがあります。
ナザレにて
主イエスは足をのばし、ガリラヤ地方にあるご自分の育ったナザレに行きます。かつて旅でナザレの街を通り抜けたことがあります。家並が続く地味な通りであったように記憶しています。主イエスの時代はさらにひっそりとした佇まいではなかったかと想像します。その地で育った主イエスです。土地の人たちには顔なじみであったでしょう。
故郷には兄弟たち、母マリヤ、親類縁者もいたでしょう。ルカは触れません。ただ、幼い頃から続けた、「いつものとおり」安息日に会堂に入ります。「いつものように」とさりげない言葉ですが、主イエスの父なる神への忠実さを現す言葉です。私たちも「いつものように」会堂に集うことを願います。
主イエスは安息日に会堂に入ります。みことばを聞く場と時です。どのような日でも、「いつものとおり」神を神とし、礼拝する日です。父なる神のみこころを歩む宣教、主イエス・キリストの姿勢がここにあります。生きる根本を父なる神のみこころとする主イエス・キリストです。会堂に入ったのは明確な意図があってのことです。席を温めることなく立ち、みことばの朗読です。神の言葉の説教が成されない会堂は意味をなさないということです。
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福音が告げられる
立ち上がった主イエスに、すると、ですから即です。預言者イザヤの書が主イエスの手で開かれます。良きおとずれ、福音そのものであるお方が開きます。受けた預言者イザヤ書から特定箇所を見つけます。神からのみことばを聞こうと固唾をのむ会衆に届く福音者イエスの朗読の御声です。
「わたしの上に主の御霊がおられる。」みことばが人となられたお方の朗読です。「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。」御霊が宣教へ押し出します。「わたし」のことばに主イエスご自身を重ねます。油そそがれた者、メシヤ、救い主として会衆の前に立ちます。彼らのメシヤ像がずれていたにしろ、他国の支配からの解放するメシヤを望んでいました。
福音を聞き救世主を仰ぎます。他国支配からの解放を夢見ます。「捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」みことばは約束、慰めです。「主の恵みの年を告げ知らせるために。」で終わります。
朗読後主イエスは書を巻き閉じます。書を係の者に渡します。係の者、会衆も立って聞いていたかもしれません。今はどうか定かでありませんが、欧州のある教会ではみことば朗読では立ち、賛美では座って行うと聞いたことがあります。以前独裁政権下のルーマニヤで、ご高齢の婦人たちが立ったまま礼拝していた光景は今も目に焼き付いています。
朗読を終えた主イエスにみなの目がそそがれます。福音である主イエスご自身に重ねた、「わたし」の特別な響きで届いたでしょう。ここに立ちおすわりになる油そそがれた者、メシヤを感じたでしょう。預言者の言葉が成就する約束に生きる会衆です。その成就が今かと、ただならぬ緊張感でみなの目がイエスにそそぎます。期待と緊張感が会堂を包んだでしょう。
主日礼拝で説教者がとりつぐ「みことば」に期待と緊張感がそそがれているか、問われます。聞く「みことば」に会堂が期待と緊張感に満ちるだろうか、語る者も聞く者も問われます。「みことば」を神のみことばとして聞く耳が開かれているか。主イエスの朗読に会堂の民はみな目をそそぎます。
きょう
朗読を終え、主イエスは話し始めます。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」朗読を除き、主イエスご自身の第一声「きょう」にひかれます。いつか、やがてではありません。曖昧な「いつか」でありません。主イエスがお語りになる「きょう」です。会堂の民はじめそれ以来聞いてきた人々、今聞く私たちへの永遠の「きょう」です。
「あなたがたが聞いたとおり実現しました。」あなたがたがおこなった通りではなく、聞いたとおりです。実現者は主イエス・キリストです。みことばを聞く「きょう」約束の成就の始まり、神の国の始まりに生きます。「みなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚いた。」預言者イザヤの「わたし」の言葉に、主イエスご自身が重なり「きょう」実現します。主イエスは「主の恵みの年を告げ知らせるために。」宣教を始めます。
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