イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。ルカの福音書4章23-30節 聖書協会
故郷にて
「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」第四章二十一節のみことばは教会の前進力です。主イエスのみことばに驚きの一つは、預言者イザヤの約束が会堂で朗読され、それが成就した宣言です。二つ目は、約束の成就の開始が富者や、国政者や、宗教家たちへのものではなく捕らわれた者、社会的弱者、見捨てられた人々です。そして、三つ目は、ナザレのイエスが突然現れ会堂での聖書朗読です。「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは驚きます。
驚きと讃えから、二十三節以降で姿勢が変わります。イエスに否定的な態度をとります。他所での業を郷里でも、とあなたがたは思っていると主イエスは指摘します。「医者よ。自分を直せ」を引用し故郷で自分の正体を証明しろという人々の思いを知って言います。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。」
イエスの育ったナザレの者たちは、イエスに期待することをやりなさいと迫ります。そこでイエスは、彼らが知る預言者を上げ、み業がイスラエルの民ではなく、異邦人に現れたことを語ります。民が思う当然が、イエスにはそうではありません。神のみこころに歩み、御霊で歩むイエスです。人々の思い通りにならないイエスは歓迎されません。郷里で拒否され、怒りをぶっつけられます。
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民の怒り
怒りをもたらしたのは、ユダヤ教の会堂で異邦人について語られたことです。ユダヤ人が異邦人に対して持つ軽蔑意識は強く、それも彼らの集会所で行われたのは許し難いことです。聖別された民という自負を強く抱く群れです。その中で主イエスの語りがイスラエルの民ではなく、異邦人に向かったエリヤ、エリシャの話です。
いずれの名もイスラエルの民には馴染みで誇らしいものです。これら預言者たちの異邦人への働きをあげるイエスについてゆけなかったでしょう。異邦人は神と関係が無い者たちと見なされ、軽蔑の対象でしたから、預言者たちの事例を聞くの民には、聞くに堪えられないことだったと思います。会堂にいた人たちはみな、ひどく怒った。
怒りは尋常ではありません。「立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。」預言者イザヤの書を手渡され朗読したイエスの様子とは様変わりです。つい少し前、イエスを皆ほめたたえたが、間を置かず怒りをあらわにします。
人々は怒りにまかせイエスを郷里から追い出します。そればかりか崖まで連れて行き、そのふちに立たせます。イエスをほめた者たちがここまで態度を変えることが出来るのか、人がここまで変わり得るのか、罪がこれほど深く人に食い込んでいるのかと、改めて罪の病を覚えます。その病が、悪が、罪が、イエスを投げ落とそうとします。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。」
怒りの背景
何故預言者は自分の郷里で歓迎されないでしょうか。語られていません。ナザレの出来事から言えるのは、地元の思惑に答えなかったことがあります。預言者にしても、時代の民の思惑に応答するのではなく、悔い改めを迫り、神への立ち返りを語ります。不信の民に警告し、神の審判を宣言します。滅亡さえ語ります。預言者の宣言と布告を聞き民は反感を持ち、敵対し、退けようとします。崖のふちに立たされ投げ落とされそうな目に遭います。
自分達の思惑通りにならないなら、相手を消すのが罪人の取る手段です。初めは気に入り、ほめ讃えても、潮目が変わると容赦なく無視します。自分の目的を果たすだけです。自己中心で有無を言わさない衝動です。自己陶酔者に露わになる罪の病と症状です。
ルカ4章31-38節 悪霊が認める神、ルカ4章40-44節 悪霊の力に対峙する
自分たちは
彼らはひどい、あのような酷い仕打ちはあり得ないと言う人もいるでしょう。彼らはユダヤ主義者であり、私たちとは違うと思う人もいるでしょう。でも、私たちは主イエスをこころから追い出さないでしょうか。生活で不信がしみ出し主イエスを無視することはないでしょうか。会堂の者は怒るまま罪深い行動を露わにしました。私たちの罪深さは見えないかもしれませんが、同様なことをこころのなかで行っていないでしょうか。
「しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。」いかに彼らの怒りが激しいものであったとしても、彼らの思い通りにはなりません。彼らの罪深い行動に対して、ルカは、しかし、のことばを挿入し、民の意思を砕きます。それも、静寂の中、彼らの真ん中を通り抜けます。
いのちの危機が丘にありましたが、ここが主イエス・キリストの丘ではありませんでした。そのときは未だ来ておりませんでした。主イエスは怒りの丘を、その真ん中を、静寂を残し、行ってしまわれたのです。父なる神のみこころをひたすら辿る後ろ姿を残します。イエスを見失い、パフォーマンスだけに目を奪われた民を後に置いて。