コンテンツへスキップ 投稿日:2023年8月16日/更新日:2025年1月29日

ルカ4章31-39節、悪霊が認める神の聖者

悪霊がいる所にも光が差す

イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。

ルカの福音書4章31-39節 聖書協会

それからのイエス 

郷里ナザレの誤ったメシア観、王に仕立て上げようとする態度に否を突き付け、何もせず通り過ぎたイエスです。群衆から身を引き、山に退き静まることもあります。父なる神との親しき交わりです。イエスを世に遣われた父なる神のみこころに身を置くときです。郷里を去る静まりは、やがておとずれる丘の木から民のために祈るときへの備えです。

郷里の民の真ん中を通り抜け、主イエスは宣教の旅を続けます。行く先をガリラヤにあるカペナウムに定めます。郷里で受けた扱い、脅迫で受けた傷を微塵も感じさせず歩みます。みこころに在る主イエスの平安と忠実さが見えます。父なる神に遣わされ、使命を唯一の歩みとする姿が映し出されます。

祈りは願いばかりになりがちです。病、苦しみ、悲しみからの解放を願います。これらも妨げられません。嘆きの祈りもみことばあります。ただ、願いの祈りで終始するなら立ち止まりたいものです。祈りはみこころを尋ね求めるものです。父なる神を求めることです。その祈りを主イエスは明らかにしてくださいました。私事に終始する祈りからの解放です。「御国を来たらせたまえ」の祈りを聞くとき祈りの道が明らかになります。

会堂にて

安息日ごとガリラヤ地方のカペナウムにある会堂に入り教えられたイエスです。その教えを聞く人々は、イエスの権威に驚きます。主イエスの教えに驚いたとあります。それまで会堂で朗読されたみことばに権威が無かったということでしょうか。神のみことばが朗読され語られるならば、みことばの権威はそこにあるのです。しかし、主イエスの教えに驚くのです。それまでいったい何をしていたでしょうか。

みことばをふさわしい会堂で扱っているにもかかわらず、扱いに問題があったでしょうか。儀式的に扱われ朗読され、教えられ生活に何ら意味をなさないものだったでしょうか。みことばが朗読されても神不在だったでしょうか。そこに、イエスがお立ちになり、語ったとき驚くのです。

今までと異なります。みこころに立つお方からのみことばは権威と神のご臨在の出来事でした。悪霊に取りつかれた者が露わになります。悪霊が会堂内の者に取りついていたのは驚きです。集う者たちは気付かなかったということです。いつも通り会堂に集っていたということです。そこで、みことばに聞き、その教えを聞き続けていたのです。

彼らの盲点といえば言えます。週毎に集う私たちはどうでしょうか。何か事が起こって初めて、驚き気付かされることがあります。集い慣れ、みことばの驚きを失っているかもしれません。集いが特別ではなく当たり前になっているかもしれません。彼らだけのことではないのです。みことばが権威をもって語られるとき、真の現実に目覚めさせられます。露わになった悪霊につかれた者が明らかにされます。みことばで露わにされた事柄は終わることなく、そこから真の事柄へと展開します。

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イエスがおられるところ

悪霊につかれた者が叫びます。悪霊はイエスの本質を分かっていたのです。悪霊にはイエスの存在が命取りです。「あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」悪霊に主イエスは取りつかれた者から出てゆけ、と宣言します。悪霊は出がけに取りついた者をなぎ倒しますが、その者になんら影響を残しません。これを見ていた者たちは、再びイエスの権威と力に驚きます。悪霊がうろたえ、人々が驚き、状況を一変させたイエスです。

会堂は、まさしくこのことが起こる場であることを求められます。みことばが説かれ、主イエス・キリストが紹介され、その場で主が生きるなら、会衆は主イエスの権威と力に驚き礼拝する者とされます。悪霊に勝ることが起こります。みことばを聞き、主イエス・キリストのご臨在を信じる者に罪の贖いと救いが起こります。礼拝者が新たにされる出来事は起こり続けます。主イエスの権威と力が現れるからです。

ガリラヤから何らよいものが出るはずがないと聞いていた者たちが、悪霊の口からナザレのイエスとの叫びを聞き、場の激変を見て驚きます。会堂での出来事はありとあらゆるところに知れ渡っていったとあります。一つの会堂で起こったこと、起こり得ないような悪霊事件です。事柄からすれば内輪の話で収めたほうが、悪い噂がたたなかったでしょう。しかし、辺り一帯に知られます。知られたのは、悪霊事件ではありません。知られたのはイエス・キリストの権威と力あるみことばです。

ルカの福音書

ルカ4章23-30 人間の愚かさと怒りルカ4章40-44節 悪霊の力に対峙する

会堂から家へ

イエスは会堂から去りシモンの家に行きます。会堂から日常の中心である家に身を移します。安息日にある家庭に入り、熱にうなされているご婦人に手を差し伸べます。ユダヤ人に安息日は神礼拝、ただそれのみに集中する日です。それに関わりのない行為は規則違反です。教えと習わしを踏みにじる行為です。その視線を浴びてイエスは病人、シモンの義理の母を癒します。

高熱で横たわる婦人に向かい病のもとをしかります。しかられた熱は婦人から去ります。会堂に在って権威あるみことばで力を示したイエスは家でもみことばの権威と力を示します。それも、安息日を守るべき会堂以外で権威と力を発揮されます。特定の民や場、そして、人があつらえた宗教上の定めを越え働かれるイエス・キリストの宣教がこの家でも明らかになります。

みことばの権威と力により癒され、立ち上がった婦人は即、イエスをもてなします。イエスばかりか、主に従う者たちをもてなします。みことばに変えられた者の姿、イエス・キリストで変えられた者の生き方です。「仕えられるためではなく、仕えるために来ました」といわれたイエス・キリストの弟子の歩みが茶の間から始まります。すぐさま立ち上がり仕え始める弟子となります。イエス・キリストのみことばの権威と力により。

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