コンテンツへスキップ 投稿日:2023年9月3日/更新日:2024年12月23日

ルカ4章40-44節、悪霊の力に対峙する

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日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

ルカの福音書4章40-44節 聖書協会

夕に朝に、そして 

日が暮れ安息日が終わり、弱り果てる者を人々は主イエスのみもとに連れて来ます。日没と同時に動きだします。闇が一段と深くなる時です。「ひくれてよもはくらく わがたまはいとさびし」、の讃美歌があります。一日の終わりはやがて来る人生の終わりを想わせるときです。日が暮れると、の表現は辿ってきた様々な人生を思い起こさせるときでもあります。

病人、そして支える人々が長く病と闘ってきました。回復の兆しがなく闇が迫るなか主イエスのみもとに来ます。このお方ならと来ます。最後の望みを主イエスにつなぎ来ます。「ひくれて よもはくらく わがたまはいとさびし よるべなきみのたよる 主よともにやどりませ」と賛美します。イエスのみもとに来ます。

ある兄弟の旅立ち

天に召されたある兄弟との短い交わりを思い起こします。さまざまな病をかかえながらも礼拝に参加されていました。そこでお聞きしたのは「礼拝に出ることがわたしの楽しみです。」礼拝後は「神のことばを生〔なま〕で聞くことは喜びです。」礼拝に参加出来なくなり施設の一室で共に主の食卓に与りました。そこで「思いもよらない喜びです」との言葉を聞きました。

同兄の意識が混濁するなか、兄弟に教会に残す言葉はありますか、と問いました。そしたら、「自分はキリストの教会の過去も、今も見続けて来ました。将来も見続けたい。世代の継承が大変な中、それでも期待し見て行きたい」と、ご自身のことは一言も無く、教会を思う言葉をお聞きし、励まされ、感謝しお部屋を離れたことを思い出します。

兄弟の言葉そのままではありせんが、記憶に沿って内容はほぼその通りです。地上の生涯としては日が暮れかかったころです。その夕暮れどき主イエスのみもとで、歩まれ、残した信仰の言葉を聞いたことは励ましです。説教者への激励です。「その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。」(ゼカリヤ書十四:六、七)「夕暮れ時に、光がある」、この確かさを兄弟から示されました。神の愛、主イエス・キリストの恵み、御霊の交わりを受け続けるキリスト者の幸いです。

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夕暮れ時

陽が暮れ、闇が追いかけ、人々が病人を抱えて来ます。抱え手に危険を及ぼす病もあったと想像します。それでも、安息日の終わりの時を待ちわび、切羽詰まって人々がみもとに来ます。迫る闇に主イエスなら、主イエスだけには一筋のひかりがあると願いみもとに来ます。

夕暮れ時は一日が終わり、その日の疲れがどっと出ます。仕事を終え帰宅し食卓を囲み、憩うのが夕暮れ時です。ところが、主イエスは病人ひとりひとりに手を置きいやします。疲れをものともせず、このお方ならと必死の願いで来た人々の期待は裏切られることはありませんでした。この里でも、私たちが唯一全幅の信頼を置く主イエス・キリストが明らかになります。

こころ踊ることと時同じくし、悪霊どもが現れます。人々の間で「あなたこそ神の子です」と叫ばれていたでしょう。悪霊どももそうします。主イエスは、悪霊どもをしかり、ものを言うのをお許しになりません。叫びの内容は間違っていませんが叫ぶものが悪です。ですからお許しになりません。。

朝になり

夕暮れ時から朝へと時が進むのは、天地万物の創造の秩序です。夕があり、朝があったということです。通常朝があり、夕とするでしょう。しかし逆です。興味深いときの秩序です。ときを支配し、闇の支配者の悪霊を支配し、死を支配され、すべてを支配する神をあらわす表現でしょうか。夕暮れ時にあって主イエスのみもとに来ます。ここにひかりです。

朝になって、と主イエスの御業の時を刻みます。夕暮れ時からいつまでご愛労に没頭されたのかわかりません。そろそろこの辺でと時の算段をしながら向き合うこともあり得ます。しかし、主イエスの関わりは時を意識しません。人々に、ひとりひとりに、思いを注ぎ闇の中でひかりとなります。その延長線上で朝が来たのでしょうか。

寂しいところへ

朝になり主イエスは寂しいところに出て行きます。人里離れたところに行かれたでしょう。人々の求めに応答し忙しくされた主イエスが父なる神との静まりを求めたでしょうか。その願いを許さず、人々は主イエスを捜し、みもとに来ます。ここは病む者をかかえて来た人々ではありません。「イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。」

かつて、郷里ナザレで直面した自己中心な郷土愛と同類です。主イエスが郷里で特別なことを行うのは当たり前と迫り、起こらないと崖から落とそうとした自己中心な行動と同類です。主イエスのご愛労を見ました。そのお姿を見て捜し回り、みもとにきました。主イエスの御業に共感しました。しかし、私の願いをかなえるイエスを引き止めようとします。行動は自己中心的です。主イエス・キリストを見失っています。

私たちの思いを取り払うように主イエスは真実を語ります。彼らの要求に主イエスは言われます「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。」彼らは自分たちの思いに囚われ、主イエスがすべての人々へ神の国の福音を伝えるため遣わされたことを聞き逃しています。そうでなければ、主イエスを足止めするようなことにはなりません。

彼らに主イエスはご自身を明確にします。「わたしは、神の国の福音を宣べ伝えるために遣わされたのです。」ご自身の使命の背後にある父なる神のみこころを人々に明らかにします。父なる神のご意志を示します。郷里では主イエスを崖から落とそうとしました。ここではみこころを明らかにされた人々は黙ります。「そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。」主イエスはガリラヤからユダヤへと神の国の福音を宣べ伝えます。

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