聖餐式はいつ行われるのか。聖餐式の頻度は、それぞれの教団の伝統によって違います。クリスチャンは毎週の礼拝で聖餐式にあずかることが、神の御心です。聖書を紐解き、初代教会の記録から、なぜ毎週の聖餐式が正しいのかを解説します。ちなみに聖餐式は、「せいさんしき」と読みます。
週の始めの日、主の日にクリスチャンは集っていた
1世紀のクリスチャンたちは、週の始めの日(現在の日曜日)に礼拝のために集っていました(使徒行伝20章7節)。この週の始めの日は、教会が始まったときから、主の日として名付けられていました(黙示録1章10節)。
主の日と呼ばれるようになった理由は、聖書にはハッキリと書かれていません。しかし、「主イエス・キリストは週の始めの日に死から復活した」ことを記念して、主の日と呼ばれるようになったと考えられます。ですから、1世紀のクリスチャンたちは、主の日に主の名によって、神を礼拝していたのです。聖書の記述と呼応するように、2世紀-3世紀の諸教会のクリスチャンたちも、主の日に礼拝をもっていたと記録されています。1-4世紀のクリスチャンの文献には、次のように書かれています。(翻訳はすべて野々垣正信によってなされています)
- Didache ディダケ―(1‐2世紀の教会の教えの記録)「あなたの罪を告白しあなたの捧げものが聖なるものであるように。主の日に集まりパンを裂き感謝をささげなさい。」
- Ignatius イグナチオ(2世紀)「旧い慣習に従っていた人たちは新しい希望に来ました。もはや安息日はなく、主の日に私たちの命は上げられます。この神秘を通して私たちは信仰を受けました。」
- Barnabas バルナバ(2世紀)「クリスチャンは8日目を喜びの日と定めます。なぜならイエスは8日目に死からよみがえられ、天に上ったらからです。」
- Justin ユスティノス(2世紀)「私たちは、いつもお互いにいっしょに支え合っています。すべての造り主である方を、一人子イエス・キリストと聖霊を通して、褒めたたえます。日曜日と呼ばれる日には、集会があります。」
- Tertullian テルトゥリアヌス(3世紀)「ある人たちは、クリスチャンの神は太陽だと思っているようだ。なぜなら、私たちは日曜日を喜びの日としてしていることは、よく知られているからだろう。」
- Eusebius カイサレアのエウセビオス(4世紀)ユダヤ教に傾倒している人たちは、安息日や他のユダヤ教の慣習に従っているが、私たちは主の復活を覚え、主を礼拝するために主の日に集まる。」
Everett Furguson, Early Christians Speak (Abilene, TX: ACU Press, 1987), p.67-79を参照。
初期の教会のクリスチャンたちは、主の日ごとに主の晩餐に与っていた

1世紀のクリスチャンたちは、毎週、主の日ごとに主の晩餐に与っていました(使徒行伝20章7節)。この聖句の記録と呼応するように、2世紀―3世紀の教会においても、主の晩餐は主の日の礼拝の一つのかたちとして行われていました。2-3世紀のクリスチャンの文献には次のように書かれています。
- Didache ディダケ―(1‐2世紀の教会の教えの記録)「あなたの罪を告白しあなたの捧げものが聖なるものであるように。主の日に集まりパンを裂き感謝をささげなさい。」
- Ignatius イグナチオ(2世紀)「聖餐式を行うように心がけなさい。主キリストの体と一致のための一つの杯の血があります。」
- Justin ユスティノス(2世紀)「祈りをささげ、キスによってお互いを挨拶をしなさい。その後、パンと水で薄めた葡萄酒をもってきなさい。教会の指導者は、一人子イエス・キリストと聖霊を通して、父なる神に祈りをささげなさい。指導者が祈りを終えた後、信者たちはアーメン、アーメンと唱えます。そして、一人一人の信者パンと水で薄めた葡萄酒が与えられます。そこにいない人たちのために、パンと葡萄酒をもっていってあげなさい。」
Everett Furguson, Early Christians Speak (Abilene, TX: ACU Press, 1987), p.93-105を参照。
神が定めた1週間のサイクル
創造主なる神は、6日で万物を創造され7日目に休まれました。旧い契約では、7日目を安息日として定められ、イスラエルの人々は安息日に主なる神を礼拝したのです。イスラエルの人々は、安息日にはすべての仕事を休み、肉体的な安息と霊的な安息を得ていました。
新しい契約においても、1週間のサイクルは継続しています。けれども、安息の日が新しくされたのです。安息の主であるイエス・キリストが、「主の日」を安息の日に制定しました。主の日は、イエス・キリストが死からよみがえられた日です。1世紀に教会が建てられたときから、この教えに変わりはありません。ですから、クリスチャンは、毎週、主イエス・キリストの十字架と復活を覚え、主の晩餐である聖餐式にあずかっているのです。この慣習も、1世紀から始まり、主の再臨の時まで続けられるべき主の教えです。
イエス様を救い主と信じますアーメン
アーメン。主イエス様にいつも目を向けてれば安心です。感謝します。