人間の知恵と自己中心は表裏一体です。人間の愚かさは、自己中心的な人間の知恵にあります。知恵には、良い意味でも悪い意味でも、いろいろな意味合いがあります。たとえば悪い意味では、悪賢いとか悪知恵という言葉があります。
知恵は、悪い意味でも使われますが、なぜでしょうか。それは人間自身、知恵を悪用していることに気づいているからです。このページでは人間の知恵と神の知恵を対比します。読み終わった後、神の知恵の素晴らしさを知っていただけたら幸いです。
自己中心的な人間の愚かさ
あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。ヤコブ3章13-16節 聖書協会
多くの場合、人間の知恵は、自分自身を高めることに焦点が当てられます。自分よりも優れた人と比較して、その人より高い位置に行こうとするでしょう。これを向上心です。この向上心には、副作用があります。劣っていれば内心ねたみ、優れていれば自慢するのです。人よりも上に行けるか行けないかは、知恵にかかっています。この世の中ではズル賢くても悪知恵でも、上に行けば賢いと思われるのです。
2~3歳児の幼児に「知恵がついてきた」と、親や祖父母が言う時があります。どのような場合に使われるのでしょうか。幼児も成長するにつれて、自分の利益になることを、他の人のニーズを無視してでも選ぶようになります。この表現にまったく悪意はありませんが、人間の成長過程の一つとして表現されるようです。
人間の知恵は、自分を高ぶらせます。プライドが心に生まれます。他の人を蔑む事さえ可能にします。「世界は自分を中心に回っている」を口にこそ出して言いませんが、私たち人間はこのような感覚で行動することがあるのです。しかしこのような人間の知恵は、神の知恵とは程遠いのです。
主イエス・キリストが示した神の知恵
上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。ヤコブ3章17-18節 聖書協会
まず最初に、神の知恵は自己中心的ではありません。自分が中心にはいません。すべての人間に愛を注がれる神が、中心にいます。神の知恵によって、人間は神によって創造された存在として生きることができるのです。主イエス・キリストは、神の知恵を示されました。一番大切な戒めとして2つを挙げています(マルコ12章30-31節)。
- 神を心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
- 隣人を自分のように愛しなさい。
神が人間に与える知恵は、縦の関係と横の関係で成り立っています。

神は、人間一人一人を平等に愛しています。神にえこひいきなどありません。すべての人々が愛されているのです。「自分だけ良ければいい」という利己主義的な考えは皆無です。神が愛している人を、誰がバカにできるでしょうか。愛と忍耐によって接するべきです。神の知恵は、愛に満ちており柔和であり純粋です。
主イエス・キリストは、自ら十字架にかけられることによって、究極的に「神の知恵」を示されました。友人のために、自分自身を犠牲にする神の愛と知恵が啓示されたのです。この世はイエス・キリストの十字架を、単なるキリスト教のシンボルとして捉えています。神の愛も知恵も無視し続けています。殺伐とした世の中だからこそ、現代日本人は神の知恵を必要としているのではないでしょうか。
主イエスにとどまる時、私達は豊かな実を結ぶことができると御言葉にあります。これはこの世の私達にとって大きな恵みです。今日も主イエスに従順に従えますように。
アーメンです。どれほど私たちは神様の恵みを受けているのか、私たちの想像を超えています。感謝します。