人間は、聖書の中では、羊や鹿のような弱弱しい動物に例えられています。人間もどうようにこの世の中では弱い存在です。だから人間は、羊のように群れたがるのです。しかし、群れの中に入っていても、イジメや嫌がらせにあうこともあるでしょう。そのような人間だからこそ、「私の魂はあなたを求める」と父なる神様に祈るのです。野口良哉伝道者に励ましのことばを書いていただきました。
一見弱々しそうに見える雌鹿が、それこそ力強い雄鹿のように、それはそれは激しく、水のない川底を叩いて水脈を慕いあえいでいる。そのような切実さをもって、私たちも神を慕いあえぎ求めていきたい。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。」 (詩編42編2節) 聖書協会
皆さんは「川」に関して、どのようなイメージをお持ちでしょうか?おそらく多くの方は、美空ひばりさんの名曲「川の流れのように」の如くに、水が悠々と流れていることをイメージすることと思います。ゴスペル・フォークの名曲「鹿のように(As the Deer)」も、鹿が豊かな谷川のせせらぎから水をふんだんに飲んでいるイメージを抱かせるのではないでしょうか?
ところが、聖書の世界、パレスチナでは、必ずしもそうとは限りません。なんとヨブ記6章15節には「わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。流れが去った後の川床のように。」とありますように、そこでは「川」がある意味、裏切り者の代名詞にさえなっているのです。
実は、パレスチナにおいては、川には常時、水が豊かに流れている訳ではありません。雨季には水が流れますが、乾季には一切水が流れない、水無し川、いわゆる涸れ川(ワディ)というものが存在するのです。

そのような聖書地理に関する知識を動員して「川」を見詰め直してみる時、少し違った状況が見えてくるのではないでしょうか?名曲「鹿のように」の讃美歌の元になった詩編42編2節(口語訳、新改訳では1節)は、いくつかの翻訳では「・・・神よ、しかが谷川慕いあえぐように・・・」(口語訳)、「鹿が谷川の流れを肢体えぐように」(新改訳)となっておりますが、引用しました新共同訳では「涸れた谷に鹿が水を求めるように・・・」となっているのです。
このこと(とくに新共同訳の翻訳)から分かりますように、この詩に登場する鹿は、潤沢な谷川の流れに水を求めているのではなく、むしろ、乾季で干上がってしまった水無し川、涸れた谷において、必死に川底を口先で叩きつつ水を求めている(可能性が高い)のです。そこにあるのは、清涼感や余裕ではなく、むしろ、荒涼感と切実さなのです。
さらに言えば、詳細は省略しますが、この詩に登場すると「鹿」は、女性形の動詞が使われていることから雌鹿だと思われます。ところが、「鹿のように」という部分の鹿には男性形の名詞が使われており、雄鹿を表しているのです。つまり、ここには性の不一致の問題があります。
そんな中、ある聖書学者は、次のような解釈を提起しております。すなわち、「一見弱々しそうに見える雌鹿が、それこそ力強い雄鹿のように、それはそれは激しく、水のない川底を叩いて川底の水脈を慕いあえいでいる」と。そのような切実さをもって、私たちも神を慕いあえぎ求めていこう、という訳です。 さあ、切実に、神を求めて参りましょう!

イエス様(神様)の“二刀流”!?
イエス・キリストはある意味、神であり、人となられたお方として、究極の「二刀流」をされたと言えないだろうか?ヨハネによる福音書1章14節は、人呼んで「ヨハネのクリスマス」と言われる。ヨハネは、世界で最初のクリスマス、すなわち、キリスト降誕の背後には、神が人となるという、後に「神の受肉」と呼ばれる出来事があったことを説明しているのだ。その意味とは・・・?
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。…」(ヨハネによる福音書1章14節)
つい先日、プロ野球・元広島カープのレジェンド・助っ人、ゲイル・ホプキンス氏とお会いする機会がありました。子供の頃、父親から彼が敬虔なクリスチャンであることを聴いておりましたので、私自身は広島ファンではありませんでしたが、当時、ホプキンス選手を応援していたことを覚えています。
ゲイル・ホプキンス氏は、メジャー経験もある元野球選手であり、引退後は医者として働き、最後はキリスト教系の「オハイオ・バレー大学」の理事長も務められました。ちなみに、野球選手時代からその選手生命の短さを意識して、医学の道に進むことを考え、備えていたそうです。ある意味、野球選手と医者という、本物の「二刀流」なのではないでしょうか?ちなみに、野球における投打の二刀流は、高校野球までは決して珍しいことではありませんので、私自身は野球における投打の「二刀流」という言い方には多少とも疑問を感じております。
それはさておき、やや微妙な表現かもしれませんが、私たちの救い主、主イエス・キリストはある意味、神であり、人となられたお方として、究極の「二刀流」をされたと言えるのではないでしょうか?冒頭に掲げた聖書のみことばは、人呼んで「ヨハネのクリスマス」と言われる箇所です。ヨハネは、世界で最初のクリスマス、すなわち、キリスト降誕の背後には、神が人となるという、後に「神の受肉」と呼ばれる出来事があったことを説明しています。また、使徒パウロによれば「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ」(フィリピの信徒への手紙2章6~7節)たというのです。
ところで、なぜ、主イエス・キリストは、神でありながら、人となるという、究極の「二刀流」に踏み切られたのでしょうか?それはひとえに私たちの苦悩を≪アンダー・スタンド≫、文字通りには「下に立って」とことん“理解”し、私たちの負いきれない重荷を代わりに背負い、贖いの十字架に架かって下さるために他なりませんでした。
あの『ナルニア国物語』でも知られるC. S. ルイスは、神が人となるということは、人間がナメクジになることよりも過酷なことなのだと述べています。何しろ、永遠無限なお方が、有限矮小な人間の肉体をとり、しかも、何もできない赤ちゃんになられるのですから。ここに神の愛があるのです。これが言うなれば、クリスマスの舞台裏なのです。
読んで下さいました皆様、お一人お一人に、主なる神の平安が豊かにありますように! シャローム!!!

本当に良い曲です
日本語訳も良いと思います。
聖名を崇め讚美します。
讃美歌『鹿のように』が私は大好きで、歩きながら良く口ずさんでいます。まだ最近に知った曲でして私の母教会では歌われることのない讃美歌なので少し残念です。初めて聴いた時からメロディが気に入ったのか、歌詞が気に入ったのかバランスが良くて良い讃美歌ですよね。本日に読めたメッセージも理解しやすく感謝でした。
主イエスを第一に愛する者となれるよう日々主に祈り求め、清く用いていただけますように。
2025年11月14日 金曜日