コンテンツへスキップ 投稿日:2025年2月28日/更新日:2025年2月28日

人知を超えたイエスの十字架の真実

イエスの十字架の真実

山頂で神の声を聞いた弟子たちはイエスと山を降ります。苦難の中にある人々に仕える歩みが始まります。待っていたように、霊につかれた息子を助けてください、と叫ぶ父親がいます。イエスは呻き、憐れみ癒します。そして、十字架の予告です。弟子たちは理解しません。今はよいのです。イエスに従うとわかります。イエスの十字架の真実があります。

翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。ルカの福音書9章37-45節 聖書協会

山を降りる 

山頂で、神の御声を聞き弟子たちはイエスと山を降ります。群衆が一行を迎えます。手に負えない重荷を抱え麓で一行を迎えます。未だ何も起こっていなくても、人々はイエスのもとに集まります。イエスがおられるだけで人々は集まります。会えば何かが起こることを知っています。

イエスをかしらとする教会に行けば何かが起こる期待が持て、そこに集うだけでよいところとなっているだろうか。群れがイエス・キリストの人柄を現しているだろうか。説教が生きるキリストを紹介し、そのお方に出会うところとなっているだろうか。吟味しなければならない。教会は主に呼び出され、主の人柄を現わす者たちの集まりです。

さて、一行は山を降り、休むいとまもなく人々と向き合います。群衆からは様々な声があがります。叫び、嘆く声があったでしょう。ひとつ一つの声、叫びを聞くイエスです。声を出せない声も聞いておられるイエスです。すべての声を聞かれるイエスです。その中から取り上げられた出来事があります。

「すると、群衆の中から、ひとりの人が叫んで言った。『先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。』」

父の叫び

他の叫びを打ち消し、ひとりの叫びがイエスに届きます。父親からの必死の叫びです。父には面子があったでしょう。そこに隣近所の者たちや職場関係者も居たかもしれません。出来れば内々に済ませたい気持ちもあったかもしれません。しかし、周りを気にするどころではない決死の叫びです。

先生、と呼び、教えてとは叫びません。先生の教えにちからあるから叫んだでしょう。教えがことを起こし、現状を変えてくださる、いのちの教師です。ですから、この長く続いている悲惨をなんとかしてください。ひとり息子をなんとかしてください、先生と叫びます。

お願い、と叫ぶのは当然です。ひとり息子、と加えます。人の弱さにいのちを注がれるイエスです。独り子イエスに響く父親の言葉でしょう。父なる神のもとを離れ、嘆きの地に立つ独り子イエスに特別な思いが走る父親の言葉、ひとり息子です。父親の叫びは続きます。イエスは聞き続けます。

「ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」

近所の医者に連れて行ったでしょう。あちこち行ったでしょう。手を尽くしても埒があきません。病より、霊にとりつかれていると受け止めます。肉体的病というより、霊的なこと、宗教がらみの問題です。宗教家にも出向いたでしょう。失望の連続です。そのなかイエスの一行を最後の頼みとして待つことになりました。

父親は息子のありのままをイエスに伝えます。イエスに出会う者にとり重要な姿勢です。ここにすべてを打ち明け、ここに全存在を委ねる信仰告白です。それで、息子の存在がイエスのものとなります。父親が息子に代わり信仰告白します。息子と父親は一つの願いです。だからイエスは聞き続けます。

告白で、弟子たちとの関わりを伝えます。彼らは何も出来ませんでした。イエスには痛恨の極みです。これまで導き、教え、現場体験をした弟子たちが、叫びに対処できません。なんのための月日だっただろうか。弟子たちの無力もさることながら、父親に応答出来ないことにこころが痛んだでしょう。

イエスは答える

「イエスは答えて言われた。『ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。』」

のたうつ息子を抱える父親になにもできない者への言葉です。第一声が、ああ、です。呻き声です。弟子たちだけへの声でしょうか。弟子たち、親子、群衆、すべてへの呻きです。御子が人々の嘆き、叫びの絶えない世に呻きます。不信仰な世に呻く声です。ここにいるイエスを信じないのか、目の見ていないのか、いつまでがまんしなければならないかと呻きます。

そして、言います。「あなたの子をここに連れて来なさい。」イエスは、ああ、と声をあげ、呻き、がまんをしながらいつまででしょうか、との思いを吐露します。その憤りが息子へのあわれみとなります。イエスのあわれみを必要なひとりを忘れることは決してありません。

ああ、のことばにならないことばを発し、身を砕くような呻きでも、ひとりの子羊を忘れることはないのです。失われた一匹の子羊を追いかけ、追いかけ、追いかけなんとかしたいイエスです。その呻きを私たちは知っています。知って救われました。ああ、は、私たちを救うための神の呻きです。

霊は彼を打ち倒し、激しく痙攣させ、振り回します。最後のあがきです。「イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された。」汚れた霊が明らかになり、叱り飛ばします。イエスは、霊の実態を露わにし、叱ります。ひとり息子はよくなります。

十字架の予告

イエスの十字架の真実

彼らはあっけにとられます。弟子たちが聞いてきたことをあらためて語ります。イエスの受難です。なぜ、ここで語られるのかわかりません。語られたことを、しっかり受け止めるよう願います。しかし、弟子たちは理解しません。彼らから隠されていた、と記されます。意味はわかりませんが、聞いたことばに恐れを抱き、イエスに問うことさえひかえます。

いまはそれでよいのです。ただ、言うのです、「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」イエスに従ってゆくとき、意味がわかります。いまは、隠されています。

                           蕨キリストの教会 戸村 甚榮                          

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