コンテンツへスキップ 投稿日:2025年3月4日/更新日:2025年3月14日

ヨハネの福音書6章26節-命の源の真実

森林に差し込む光

人は何のために働いているのでしょうか。食べるため?、遊ぶため?、家族を養うためでしょうか。これらは身近なニーズとして当然の理由です。しかし、私たちの命の遠く先を見ると、まったく違った目的が見えてきます。何のために働いているのかというよりも、結局、何のために生きているのかという疑問に行きつきます。キリストが教える命の源について考えてみます。

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」…すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」ヨハネ6章26-35節 聖書協会

食べるために働いている?

あなたは何のために働いているのか?と聞かれたら何と答えるでしょうか。東京の繁華街でこのような質問をしたら「バカな質問するな」と怒鳴られるかもしれません。食べるため、遊ぶため、理由はいろいろでしょうが、とにかく働かないと生きていけません。家庭のお持ちの方にとっては、仕事をして月々の生活費を賄うのは必須項目でしょう。家族を養わなければなりません。

「何のために働いているのか」という質問は、究極的に「何のために生きているのか」につながります。私たちはいったい何のために生きているのでしょうか。人生の目的は何でしょうか。ある人の目的は、お金を貯めて大きな家に住み、良い車を買って、幸せな家庭を築くことにあるかもしれません。主イエス様は、非常に意味が深いことを言っています。

どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることも出来ないからである。ルカ12章15節 聖書協会

私たちの人生の幸せは、どれだけ裕福かで決まるわけではありません。確かに、お金さえあれば、この世の中にあるもの、ほとんどの物を手に入れることは出来るでしょう。人の心さえも買うことも可能でしょう。しかし、それが人の幸福への近道とは言えないのが人生ではないでしょうか。

この世の中には、何十億という財産を持ちながら、結果的に不幸な人生を送った人たちが数切りないいるのです。私たち人間は、その事実に目を向けず、ただ目の前にあるお金という餌に、無心に喰らいついているだけではないでしょうか。お金で身を持ち崩した人を見る時、愚かな人間は次のように自分自身に言います。「私は違う。私はお金を賢く使うことができる。不幸になるはずがない。金さえあれば、何でも出来るのだから」と。

永遠の命に至るために働きなさい

主イエス・キリストは、永遠の命に至るために働きなさいと教えています。この意味は何でしょうか。永遠の命は、天から与えられる命です。肉体の命ではありません。その永遠の命をいただくために何をなすべきかの疑問に、主イエス・キリストは答えます。「神によって遣わされた方を信じなさい」と。非常に遠まわしな言い方ですが、「わたしを信じなさい」と言っているのです。私たちは、この呼びかけにどのように応えるべきでしょうか。

日本には、カルト宗教の温床のような特殊な文化的な宗教事情があります。数十年の間に様々なカルト宗教団体が、大きな社会問題を引き起こしています。その様な理由で、多くの方々が宗教には無関心になっているのも無理もありません。そこで管理人は、純粋なキリスト教-無宗教の視点をお勧めしています。

人間が作る宗教は、キリスト教であっても人間を団体の規則で縛り付けます。主イエス・キリストはそんなことはしません。そのような人間が作った組織を通してではなく、主イエス様はいつでもどこでも私たちを招いています。1対1の関係を求めているのです。主イエス・キリストがどんなお方かを知ってみましょう。

主イエス様に「わたしを信じなさい」と招かれたら、即答する必要は毛頭ありません。人生一代の決心ですので、即答するなんてこと所詮無理なのです。「ちょっと、待ってください。まだ思案中です」と言ってみましょう。主イエス様は、何日でも何年でもあなたが生きている限り待っているのですから。

命の源

主イエス・キリストは命の源

主イエス様は「天の神様が天からパンを人々にお与えになる」と言ったのを聞いて信じたユダヤ人たちは、次のように言いました。「その天からのパンを与えてください」と。この時、彼らは食物のパンを考えていたのです。

ところが主イエス様は、1世紀のユダヤ人が聞いてもビックリするようなことを言いました。「わたしが命のパンである」と言ったのです。これにはどんな意味があるのでしょうか。パンは、日本人の米と同じようにユダヤ人にとっては主食だったのです。そのパンに例えて、主イエス様はご自分を表現しています。

命のパンを別の言い方で表現すれば、命の米、命の源とも言えるかもしれません。主イエス様は、命の源を私たちに与えてくださいます。決して飢えることがないとも断言しています。ここが肝心要な点です。このイエス様の言葉には、物理的な意味、霊的な意味、両方が含まれています。

主イエス様を信じる人には、必要最低限な衣食住は与えられると約束されています。もちろん、仕事をして働きますが、その仕事も主イエス様によって与えられるのです。同時に、私たちの心の飢え渇きをも主イエス様は満たしてくださるのです。これは、本当に不思議なことです。「え~?、、、そんな事あり得ないでしょう。あなたは思い込みでそんな事を思っているんでしょう。」と大きな方々が思うかもしれません。

しかし、ここが人生の分岐点なのです。主イエス様を信じて、その教えに従ってみるか、それとも自分の道を歩むのか、人生の分かれ道だと管理人は思います。誰かを信じることは、人間にとってたやすい事ではありません。むしろ難しいでしょう。騙されるかもしれない危険が伴います。実際に、カルト的宗教団体によって騙されている人たちが、この世の中に数限りなくいます。心のトラウマから抜け出せない人たちです。しかし、そのような宗教団体を通さなくても、主イエス様を知ることはできるのです。主イエス様に祈り求めましょう。この方は、あなたがクリスチャンではなくても、祈りに応えてくださいます。

主イエス様は、天にいらっしゃいます。あなたの人生をいつも見守っています。あなたが生まれた時からあなたをご存じです。幼少期の頃からあなたが経験した喜び、悲しみ、苦しみ、すべてを知っているのです。そして、今でもあなたに呼びかけています。「わたしを信じなさい。わたしについて来なさい。わたしがあなたに生き方を教えよう。だから、わたしに学びなさい」と招いています。

人間が作る宗教団体を通してではなく、直接、主イエス様にお祈りして話しかけてみましょう。必ず何らかの形で答えが与えられると管理人は信心ています。

どうか読者の皆様の上に、主イエス様の豊かな祝福が宿りますように。