ヨハネの福音書1章1‐4、14節によれば、主キリストは創造主なる神です。この聖句をどのように理解すべきでしょうか。特に言(ことば)と翻訳されているLOGOSという単語の意味について、1世紀の歴史的文化的背景を交え旧約聖書の背景を考慮して考えてみます。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。…言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネの福音書1章1‐4、14節 聖書協会
言(ことば)は神と共にいた、ことばは神であった
「ことばは神と共にいて、ことば自身が神であった」という意味について考えてみます。この聖句には聖霊という言葉はでてきませんが、三位一体の神の働きについて説明していると思われます。ことばは、父なる神とともにいましたが、同時にことばは、神ご自身であったのです。
さて、ことばと翻訳されているLOGOSは、どのような意味で使われているのでしょうか。聖書学者の中には、敢えてLOGOSを翻訳しない方が良いと主張する人たちがいます。どんな翻訳であっても、本来の意味を言い表すことは出来ないと言っているのです。
同時に、1世紀のギリシャ語で、LOGOSがどのように使われていたかを検証するのは大切なことだと思います。LOGOSは、1世紀のギリシャ文化の中で使われていた単語です。これは間違いありません。LOGOSは、いろいろなニュアンスをもった単語です。たとえば、書き言葉、話し言葉、宣言、啓示、理由や動機のような意味で使われています。これらの内のどのような意味で捉えたらいいのでしょうか。ヨハネは、ギリシャ文化あるいはギリシャ語を使っていたユダヤ人たちの慣例に従って、この言葉を使ったのでしょうか。
もう一つマイナーな解釈があります。それは箴言8章において、神は天地万物を知恵を使って創造されたと明らかにしている点です。ヨハネは、LOGOSを知恵という意味で使ったのでしょうか。三位一体の神を信じない人たちにとっては、箴言8章は都合の良い聖句です。しかし、三位一体の神は、聖書全体を通して教えている教理なので、箴言8章に基づく解釈はNGです。
三位一体の神である「ことば」の権威
LOGOSは文字通り神の御言葉と解釈するのが、一番妥当だと思われます。旧約聖書の神学に基づき、LOGOSという言葉が使われたのです。詩篇33篇4-9節を読んでみましょう。
主の御言葉は正しく、御業はすべて真実。主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている。御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。主は大海の水をせき止め、深淵の水を倉に納められた。全地は主を畏れ、世界に住むものは皆、主におののく。
主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。詩篇33篇4-9節 聖書協会
主の御言葉によって天地万物が創られました。上記の聖句とヨハネ1章1-4節は、ぴったり合致します。また創世記1章とヨハネ1章1-4節の内容も、一致していることにお気づきでしょうか。ヨハネ1章1節に「初めに」と書かれていますが、この表現は創世記1章1節にも使われています。これは単なる偶然ではありません。ヨハネ1章1-4節も、創世記1章と同様に神の創造のわざを説明しているのです。

創世記1章においても、神は「光よ、あれ」と命令して、御言葉によって天地万物を創造されました。神の創造のわざは、御言葉によるわざです。さらにこの聖句で注目すべき点は三位一体の神についてです。父なる神は、御言葉である子と息吹である聖霊の働きによって創造のわざを行ったのです。万物の創造は、ことばである御子によって成されたと言っても過言ではありません。
ことばは人と成られた
1章14節によれば、ことばは人と成られ、この世に住まわれました。この方、すなわち、イエス・キリストは、そのすべての創造の過程において父なる神と共にいた方です。主イエスは、唯一の神の御心を伝えるために、神の愛を伝えるために、天から降りてきました。
ここまで読んできて、イエス・キリストを信じるにはまだ心もとないと考える方もいるかもしれません。では次の聖句を読んでみましょう。
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。1ヨハネ1章1-4節 聖書協会
上記の手紙を書いたヨハネは、自分の目でイエス・キリストを見て、自分の耳でその素晴らしい教え、神の愛のメッセージを聞いたのです。自分が見たこと、聞いたことは否定できないでしょう。
21世紀に生きる私たちも、聖書に書かれている主イエス様の教えを読むことが出来ます。その戒めに驚くでしょう。すべての人知を超えたイエス・キリストの力と知恵には、驚嘆するしかありません。読者の皆様はどうでしょうか。