コンテンツへスキップ 投稿日:2023年5月17日/更新日:2025年5月8日

クリスチャンが受ける恵み-ローマ8章1節

こんな私でも愛されている

人はその罪ゆえに死を迎えます。罪の種は人の心に宿っています。その罪ゆえに、私たち人間は、この世の中で苦しみと悲しみを経験するのです。しかし、クリスチャンには主イエス様によって恵みが与えられています。罪の呪縛から解放される恵みなのです。クリスチャンが受ける恵みについて説明します。

従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。…もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。ローマ8章1-11節 聖書協会

罪が人間の心におく重荷

人類の歴史は、栄光と挫折、喜びと悲しみ、楽しみと苦しみのような相反する言葉で表現できるかもしれません。科学技術の発達とともに、人類はすさまじい変化を遂げてきました。同時に、人類の歴史は苦しみと悲しみで満ち溢れています。実際、人間の罪は人間社会をゆがめ破壊しているのです。さらに個々の人たちに思い重荷を置いています。

人間は、自分が賢いと考えまず自分の創造力によって偶像を造り崇拝しています。これが人間の罪の始まりです。天の神様から離れて一人歩きを決めた人間の孤独の始まりです。人間は、この罪深い壊れた世の中で味わう苦しみと悲しみから抜け出そうと試みます。物欲、お金、名誉、名声、地位を得ても、人間は苦しみ続けるのです。さらに、もっと悪いことに、人間は、人間同士がお互いを傷つけあう存在になってしまったのです。

罪ゆえにすべての人間は、肉体的に死にます。しかし、同時に霊的にも死んでしまうのです。悪魔の虜となり、身体は生きていても霊的に死んでしまいます。悪魔によって操らている人間は、自分が正しい、他は間違っていると考えています。このような人間同士が、うまくやって行けるはずはありません。悪意に満ち不和、欺き、邪念にあふれ陰口を言いあい、時には高慢になり他人を蔑むような存在になってしまったのです。

人間の罪は、この世の中の人間社会を破壊し、混迷に導いています。罪は人々の心を蝕みます。人々にまとわりつき、人間の心の自由を奪っているのです。悪魔であるサタンに操られている人形のようになってしまったのです。このような社会で生きていて、果たして幸せになれるのでしょうか。

イエス・キリストは、罪の中にどっぷり漬かっている人間を「罪の奴隷」と称しています。罪、つまり自分の欲望によって操られているのです。奴隷には自由がありません。ところがイエスが教える真理が人を罪の奴隷状態から解放してくださるのです。罪の呪縛から自由になれるのです。

クリスチャンの恵み

イエス・キリストを信じる人には、本当の自由があります。自分の欲望に束縛されていない自由があるのです。クリスチャンの心に変化が起きます。不思議な力が働いて、心が自由になるのです。クリスチャンが罪が解放された理由は、主イエス・キリストが人間の罪を負って裁かれたからです。罪の断罪を主イエス・キリストが受けたのです。本来ならば、我々人間自身が、自分自身の罪のために報いを受けなければなりませんが、キリストは、悪魔のわざである罪を、自らの死によって十字架に打ち付けたのです。

今、主イエス・キリストを信じる人たちは、この狂った世の中でさえ至福の喜びを受けることが出来るのです。罪の奴隷であった人が、完全に罪の呪縛から解放されて自由人になったのです。罪が赦されました。キリストを信じない人々は、自由があることを主張しますが、それは悪魔の鎖につながっている、悪魔によって支配されている偽の自由です。一方、キリストを信じる人は、悪魔の鎖から解き放たれ心から自由を謳歌しているのです。

主イエス様の恵みは、罪が赦されていることだけではありません。キリストを知る前までは、自分自身をどこかで嫌っていました。ところが、健全な自己イメージを持てるようになりました。自分を素直に好きになれる、神によって愛されている、大切にされている自分を素直に好きになれるようになったのです。さらに、人間関係も改善されます。隣人を自分のように愛せるようになれます。しかし、これは自分の力や知恵で行っているのではありません。神様の聖霊の実なのです。救いの確信はもっているか-ローマ8章29節

クリスチャンの恵み

聖霊の力によって正しく賢く生きる

旧い契約下にいたイスラエルの人々は、生活の規則である律法が与えられていました。イスラエルの人々は、この律法を守ることが義務付けられていましたが、それを全うすることはできませんでした。実は、誰一人、神の律法を完全に守れる人はいないのです。

新しい契約下では、主イエス・キリストを信じるキリスト者は、聖霊の助けを得て信仰によって神に従います。「あれをしなさい。これはしてはいけない」といった律法の決め事ではなく、キリスト者は、聖霊によって導かれながら生きるのです。

これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。ガラテヤ5章22-23節 聖書協会

神に従うのは義務感からではなく、その人の信仰によって行われます。さらに聖霊がその人を導き強めてくださるのです。律法が成し得なかったことが、キリスト者に可能になったのです。その完璧なお手本が、私たちが信じる主イエス・キリストです。主イエス・キリストは、罪を犯さず、この世での生涯を終えました。今、天にいらしてすべてを支配しておられます。キリスト者は、この方をいつも慕い求め、この方を見上げて、聖霊によって生きるのです。聖霊の実によって、クリスチャンは常に前向きに生きます。喜びと平安の道を、主イエス様とともに行くのです。

主イエス・キリストを信じていないのであれば、今一度、自分の人生を振り返り悔い改めて信じてみましょう。もしすでにキリスト者であれば、主の尊い恵みを心に刻み、主に感謝して今日も過ごしましょう。

主イエス・キリストは、常に私たちを招いています。「わたしについてきなさい。わたしに学びなさい」と言っています。この方の招きに今日も応えましょう。主は待っています。

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