コンテンツへスキップ 投稿日:2025年3月1日/更新日:2025年3月27日

本当?-クリスチャンはキリストの弟子

キリストの主従関係

キリストとクリスチャンの関係をどのように説明できるでしょうか。クリスチャンはキリストの弟子です。師弟関係と主従関係という2つの言葉が、キリストとクリスチャンの関係性を説明しています。

人間が作る主従関係や師弟関係

人間が作る主従関係や師弟関係には、パワハラ、モラハラが付き物です。ちょっと間違えば、セクハラも出てきます。力による上下関係です。このような関係では、肉体の暴力、言葉の暴力が常識としてまかり通ります。

NO スポハラ

大相撲、プロ野球、アマチュアの高校野球といったスポーツの世界では、今でも鉄拳制裁の暴力が問題になりニュースで流れたります。このような関係では、上の人は下の人を完全にコントロールしようとします。下の人は、コントロールされているとわかっていも、従わざるえない状況に置かれてしまいます。

このような関係はあるべきではないですが、実際は人間社会の多くの場所で存在するのです。多くの人が、主従関係は古臭いと考えるかもしれません。なぜなら、人間が作る主従関係は、上の立つ者の絶対的な権力と暴挙によって支配されるからです。

自分自身に自信がない上役は、下にいる人たちを権力によって支配しようとします。常に自分を守っていなければ安心できないのです。芸能界やスポーツの世界に限らず、一般の会社の中にもこのような上下関係するのではないでしょうか。非常に歪な関係であり罪深い関係です。

クリスチャンはキリストの弟子

クリスチャンはキリストの弟子

では主イエス・キリストはどうでしょうか。主の師弟関係と主従関係は、クリスチャンはキリストの弟子であるという前提条件に成り立っています。しかし、その関係は人間が作るものとは対照的に、常に新鮮でありピュアな関係であり、自由と愛に満たされています。まずは師弟関係から見てみましょう。

主イエス・キリストとの師弟関係

弟子は師を仰ぎ、師に学び、師から倣います。主イエス様は「わたしのもとに来なさい」と私たちを招いています。その個所を読んでみます。

疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。マタイ11章28-30節 聖書協会

主キリストの弟子は、師である主キリストに学んではじめて安らぎを主から頂けるのです。憐れみ深い主は、私たちに思い重荷など背負わせることはありません。むしろその荷は軽いと言われています。主キリストは私たちがついて主に学ぶとき、日々、私たちの心を聖霊によって清めてくださるのです。だから、クリスチャンの人生は、その日その日が主の日であり、主の尊い恵みによって生き行くことができるのです。

このみ言葉を信じる信仰が求められています。私たちの人生には、困難な状況におかれることがありますが、そんな時にも弟子であるクリスチャンは主キリストを信頼して生きていきます。なぜなら、師である主キリストは、私たちの未来のすべてをご存じです。私たちは主キリストについていく限り、神の平安の内に生きていけるからです。

主イエス・キリストとの主従関係

師弟関係と合わせて、主従関係についても考えてみましょう。主イエス・キリストは、私たちの人生の師であり先生です。この方から人生の生き方を学び続けます。同時に、弟子であるクリスチャンは、主イエス・キリストに従うように求められています。

主キリストは、どのように弟子たちに接したのでしょうか。高圧的な脅しのテクニックを使って、弟子たちを操ろうとしたのでしょうか。弟子たちを怒り言葉の暴力を使って、弟子たちの愚かさを指摘したでしょうか。

主キリストが弟子たちに求めたのは信頼関係です。キリストは、人の自由意志を敬い無理強いして従わせるようなことは決してしません。私たち人間にいう言葉は、2000年前も今も変わりません。私たちに「わたしを信頼しなさい」と声をかけて下さっています。キリストは、私たちに憐れみの手を差し伸べて、招いているのです。

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである。マルコ8章34-35節

わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。ヨハネ8章31節 聖書協会

上記の2つのみ言葉は、主イエス・キリストと弟子の主従関係がどのようなものかを明らかにしています。主イエス様についていくために、クリスチャンは自分の人生基準を主イエス様のみ言葉に置きます。ですからその意味で、自分を捨てるのです。この聖句で述べられている十字架とは、マタイ11章28-30節で主イエス様がいった主の軛を指しています。

あるクリスチャンは、十字架が重い感じる時があるかもしれません。そんな時、私たちは自分の力に頼り、主により頼んではいないのです。自分自身で、余計な荷物を主の軛の他に背負ってしまっているのです。実際、クリスチャンになっても主イエス・キリストから目を離しその尊い教えに従わずに、余計な荷物を背負ってしまうことはよくあることです。

主イエス・キリストを常に見上げて生きる

ですから、へブルの手紙12章1-2節には次のように書かれています。

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエス・キリストを見つめながら。このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。へブル12章1-2節 聖書協会

クリスチャンの人生は、縦の関係(神との関係)と横の関係(人間関係)で成り立っています。神を愛することと隣人愛は、もっとも大切な戒めとして与えられています。しかし、もしクリスチャンが、神である主イエス・キリストから目を離したらどうなるでしょうか。主イエス様のたとえ通りに、その人のクリスチャン人生はちょっとした試練や苦労でもろくも崩れてしまうでしょう。

クリスチャンは、どこに目を向けるのか、どこにフォーカスを当てるのかによってまったく違った人生になってしまいます。キリストのからだである教会での礼拝はもちろん大切ですが、そこでもし霊的な目が、主イエス様ではなく牧師に行ってしまっていたらどうなるでしょうか。やはり危うい土台になってしまいまい、小さなことで躓いてしまいます。クリスチャンは、キリストの弟子であり、師である主イエス様に目を向けて歩んでいくべきでしょう。キリストの言葉に心から耳を傾けてみましょう。必ず新しい発見があります。読者の皆様の心に主イエス・キリストの光が差し込み、日々新しい人生を歩めますように、心よりお祈り申し上げます。