コンテンツへスキップ 投稿日:2025年11月22日/更新日:2025年12月7日

パリサイ人の思い違いとイエスの戒め

パリサイ人

敵対するパリサイ派の中から、一人のパリサイ人がイエスを自宅に招きます。食卓に着くとき、きよめの洗いをする習わしです。イエスは行いません。それを見て招いた者は異を唱えます。イエスはその者に、表面的つくろいと内面の醜さを指摘し、わざわいと厳しく指摘しわざわいとならない道、神を畏れ、愛することを語ります。

イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」ルカ第11章37~44節」  聖書協会                                                  

ひとりのパリサイ人

だれよりもまさった者がここにと言われるイエスに関心を持つパリサイ人が、イエスが話し終えるとすぐ家に招きます。多くがイエスに反感を持つなか、ひとりのパリサイ人が食事をいっしょにとお願いします。彼に批判的なパリサイ人たちがいても、このパリサイ人はイエスを家に招待します。

イエスは彼の家に入り、食卓に着きます。食卓はこころを開き、団欒の場となります。身分や業績を横に食を楽しみます。聖別された者と自負する者がイエスを招き食卓に着きます。食卓には最高の調度品、杯や大皿を並べ、招いた者の鼻は高々だったでしょう。

イエスが食前にきよめの洗いをなさらないのを見て、パリサイ人は驚きます。きよめの洗い、パリサイ派の儀式です。彼らの掟に倣うかどうか注視しているなか、イエスは彼らの流儀にかまわず食卓に着きます。それを見て驚きます。掟を無視する者への批判が起こります。

イエスの指摘

パリサイ人の驚きを越えるイエスのことばが食卓で放たれます。

「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。愚かな人たち、外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。」

イエスの話に期待したところ、自分たちの欠けが露わにされます。あなたがたパリサイ人、イエスを招いた者も含まれます。彼らは掟を堅く守っているが、外面だけで器の内側は強奪と邪悪でいっぱいと断言されます。外面は掟に厳しく対処するが、内面、こころに邪な思いが満ちていると言われます。

招いた者の面子がまるつぶれです。もてなしの食卓の杯と大皿になぞらえて語られます。それらの外面と内面が異なること、二心の歩みを糾弾されます。招く者への遠慮や、せっかくの会食の席で荒波をたてることを控えるのが招かれた者のエチケットでしょう。家の主人の立場を失うことはしないでしょう。しかし、ここでは欠けを指摘し、愚か者とさえ呼びます。

創造主は外側も内側をも良く造られたことを信じない愚かさです。創造主は、あなたがたにご自身の性質を反映し、ご自身のご栄光を現す器として、あなたがたの外側と内側、どちらもよく造られました。それを知り、この真実を民に説く者が内外を使い分けます。みこころを踏みにじる愚かさです。

愚かさの内容を語ります。内外が乖離した姿は、創造主のみこころではない事を明らかにします。それに気付き、悔い改め、内のものを施しに用いなさい、と迫ります。強奪と邪悪を謀る内側が変えられ、他者への愛の業となるようにしなさい、と迫ります。内側が愛の人に変えられ、外側に愛が現れるあなたがたこそ本来の姿です。愛で満たされるならいっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります、とイエスが太鼓判を押します。

掟を守りきよくあろうとする彼らが、行いできよさを求めれば求めるほど、外側と内側のズレが大きくなります。守ろうとすればするほど、守れない自分が露わになります。愚かな人たち、になったのです。愚かな人たち、と呼ばれたパリサイ人が愛の人とされ、施しの人へ変わることが出来るのです。愛に満たされ、愛の人とされたとき、彼らが求めるきよさが全うされます。

わざわいのパリサイ人

だが、とイエスは続けます。「わざわいだ」、と断言します。パリサイ人を「わざわいだ」、と言います。「わざわい」は嘆きの告発です。深い悲しみからの非難です。イエスの悲嘆から生まれた「わざわいだ」のことばが、彼らには告発に聞こえ反発し、愚かな人たち、と言われ、「わざわいだ」、パリサイ人、おまえたちは、と迫る厳しいイエスのことばに憤ったでしょう。

彼らの「わざわい」をイエスは指摘します。十分の一を捧げるが、なおざりにしていることがあります。行為はお決まりでやるが、内側が抜け落ちています。神の義と神への愛です。ただし、十分の一の捧げもなおざりにしてはいけません、とイエスはことわります。外側か内側、どちらかではありません。裁かれる神への畏れと愛で満ちる内から起こる行動です。外側が内側とひとつになります。

わざわいだ。パリサイ人。おまえたち、の呼びかけが続きます。

「わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。」

「わざわい」が繰り返され、公義と神への愛の欠けをさらに取り上げます。律法を民に説く者が、人の上に立ちたがり、評価を自分のものとする姿勢が問題です。仕える神の場に、自分が立つ不遜な振る舞いが「わざわい」です。律法に仕え、愛の実践者が、律法を自分のために用い、神に委ねられた権威を私物化し、自分を誇る道具にします。だから、「わざわい」です。

そして、三度目の「わざわい」です。

「わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」

イエスを招き、食卓でもてなす力があり、指導力を発揮するひとりのパリサイ人に、イエスは「わざわい」のことばを繰り返します。イエスを招いたパリサイ人をはじめ人々は、「わざわい」の告発に衝撃を受けたでしょう。彼らにイエスは「わざわい」にならない道を語ります。神を畏れ、神を愛することを語ります。

パリサイ人や食卓を囲む者たちのため、私たちのためにイエスは十字架へ向かいます。「わざわい」のことばは、ご自身の身を裂く愛の告発です。「わざわい」のことばは、ご自身の血潮を流し人々を救うための愛の告発です。「わざわいだ」の御声を聞かなくてはなりません。いま響く、主イエスの悲嘆の御声にこころの耳を閉ざしてはならないのです。

わざわいなる者への告発-ルカ11章45節

わざわいなる者への告発が続きます。彼らは神殿にかかわる者たちです。民を導く者たちがわざわいです。教える者が、教えていることに不忠実です。民に重荷を課し、自分たちは身勝手な生活をします。預言者を葬り罪を認めず、聖なるお方を拒否します。告発するイエスに救いがあるのに、悔い改めず、主の呼び掛けが続きます。

そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」ルカの福音書11章45-52節 聖書協会

わざわいなる者

「おまえたちもわざわいだ」と律法の専門家を告発します。パリサイ人に続き、律法の専門家に放たれる悲嘆の告発です。イエスが父の家とした神殿に関わる彼らが「わざわい」です。律法を人々の灯、道のひかりとして教え導く者たちです。それが、民への「わざわい」となります。

律法に仕える者が、なぜ「わざわい」でしょうか。あの時代特有の病でしょうか。今日にも「わざわい」は起こります。人々が集う場を、自分の手中に収めようと振る舞い、委ねられたみことばを自分の道具とする者が現れるときです。主に仕えるはずの者が自分に仕え、人々に重荷を負わせるとき「わざわい」と告発されます。

みこころを無視し、その権威を横取りする罪はいつの時代にもあります。主の羊たちに重荷を負わせ、悩ませ、傷つけます。教会が傷つき、混乱し、疲弊していないだろうか。キリストのからだの部分とされた者が「わざわいだ」と告発するイエスの悲嘆の声に、耳を開かなくてはなりません。特にみことばに仕え、羊たちに仕える者が問われています。

「わざわいだ」と告発するイエスの御前で聞き、逃げてはなりません。私たちのために、十字架に向かうイエスが語られています。この告発に救いがあるからです。ここにしか救いはありません。わざわいを孕んでいる教会を救おうとする告発です。イエスに帰り、祝福の器とされる道があります。教会の再生がここにあります。

しかし、律法の専門家は、パリサイ人に対するイエスの告発に反発します。「先生。そのようなことを言われることは、私たちを侮辱することです。」先生と呼びます。尊敬ではなく、反論の枕詞です。イエスに敬意を払うのでは無く、その場的な呼びかけの先生です。その態度を反映することばが続きます。「私たちを侮辱することです。」

わざわいなる者の心

専門家の心底にある姿勢が露わになります。口調と言葉に語り手の本性がさらけだされます。言葉が語り手そのものです。ことに説教卓に立つ者は、その場に立たされていることを、御前と会衆の前で自覚しなければなりません。神のことばにお仕えする者の真実な在り様、振る舞いが問われます。

律法の専門家はイエスに異をとなえます。パリサイ人への告発を聞き、専門家は告発を自分のこととして、自己吟味すべきところです。しかし、あなたは私たちを侮辱していると反発します。自分が先生気どりで異をとなえ、イエスを侮辱します。先生と呼んだイエスを見下します。イエスは律法の専門家たちに、「わざわい」の事実を語ります。

わざわいなる者

わざわいなる者の行動

彼らは、負いきれない荷物を人々に負わせ、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしないのです。負いきれない荷物は、彼らが説く戒めでしょう。守るべき戒めから生まれる重荷でしょう。人々は戒めを守ろうとするが、それがかなわず重荷を負う生活だったでしょう。律法の専門家たちは規則を熟知し説くが、自分たちになると戒めにゆるく、自分たちの生活の導きとは信じません。

彼らが「わざわい」です。人が負う荷に共感せず、教えを生きようと重荷を負う者に指一本差し出さない、冷徹な姿を「わざわい」と告発します。専門家と言われ、。律法を教えながら、戒めと自分たちの生活とは無縁です。知ってはいるが、生きません。重荷を負う者、わたしに来なさいと招くイエスから、人々の荷物に無関心な律法の専門家への「わざわい」の告発です。

戒めを研究するが、生活化には無関心で使い分ける態度が「わざわい」です。もし、律法の専門家たちが教えに忠実なら、人々が規則に従おうと苦労をする前に、律法の専門家が苦労していなければなりません。人々へ手を差し伸べる者とならなければなりません。しかし、イエスの告発を侮辱とみなした者たちに、人々が負う重荷を見るこころはありません。それが「わざわい」です。

わざわいなる者の歴史

告発は続き、専門家たちの父祖が犯した「わざわい」とつながる彼らの言動が明らかにされます。律法の専門家たちにとって誇り高き父祖のはずです。しかし、父祖たちは預言者を殺したと責められ、律法の専門家たちは殺された者の墓を建て父祖の行為を追認し、証人となっていると告発します。

世代を越え神に背きます。律法の専門家、神のことばに近くにある者が、預言者たちを葬ります。わざわいです。彼らは神に仕える専門家と自負し、民の前に立ち神に背き、人々に重荷を負わせます。この過ちは時代を越え、場所を問わず罪の「わざわい」です。

これを神は予見し語ります。「わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。」神のことばの通りです。律法の専門家の父祖たちは預言者たちを殺し、イエスの時代には使徒たちを迫害し、殺します。神に与えられた使命を自分たちの思うままにし、神が遣わす者たちを封じます。深刻なことは、神への反逆を異常と思わず、魂が麻痺し、罪に気づきません。

創造の初めに流されたアベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、主に忠実な者たちの血が「わざわい」と呼ばれる者たちの責任を問います。旧約聖書の最初の惨殺と、ユダヤ人が用いたヘブライ語の聖書の最後に登場する殉教者をあげます。神に忠実な者の血は地上から去った後も、不義なる者を告発します。

「わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。」

再び聞こえる、「わざわい」です。三度目の愛の告発で、愛と義に欠けたパリサイ人、御前で自己吟味せず、悔い改めない律法の専門家です。イエスに敵対する者です。主イエスは「わざわいだ」と愛の告発を続けます。罪を悔い改め、立ち返るよう叫ぶイエスです。告発に耳を開き、主に立ち返り、主イエスで生きよと、愛の告発です。忘れてはならない主イエスの告発です。

蕨キリストの教会 戸村甚榮 伝道者

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