コンテンツへスキップ 投稿日:2022年3月9日/更新日:2025年4月14日

マタイ5章8節-心の清い人は幸いの意味

山と湖

マタイ5章8節「心の清い人は幸いである。その人は神を見る」。心の清い人とはどんな人でしょうか。を解説します。心の清い者とはどんな人でしょうか。無意識に「あの人は心が純粋な人だ」などと人を評してしまいがちです。実際、他の人の心の奥底までは見えませんから、他の人の心が本当に純粋かどうかは分かりません。しかし、同時に、自分の心の清さは自分では計れません。いつも純粋な動機で物事をやっている、と誰が言えるでしょうか。神を知るために、心の清い人になれますように。この意味をごいっしょに考えてみましょう。

主イエス・キリストの人格

マタイ5章3-12節は、主イエス・キリストの人格、つまり主イエス様がどんなお方であったのかを言い表しています。これは、私たちが生きるべき最高の指針です。もし私たちが主イエス様の教えに従っていなければ、キリスト者の人生は、神様の御前では無意味に等しいのです。主イエス様に従っていなければ、火の中に投げ込まれ焼かれてしまうでしょう。ですから、私たちは、主イエス様に目を向ける必要があります。キリスト教の歴史には素晴らしいクリスチャンがいます。新約聖書を書いたペテロ、パウロ、ヨハネ、その他大勢います。しかし、私たちは彼らに従うのではありません。賢く生きる力と知恵、聖霊を与えて下さる主イエス・キリストに従うのです。

心の清い人になることは、多分、多くの方にとって難しいと感じるかもしれません。なぜなら、自分の心が清いと感じた時には、見事にサタンの罠にハマっているからです。私たちは、自分の心が清いなどと言えるのでしょうか。では、どのように心が清い人になれるのでしょうか。

心が清い 2つの聖句

心が清いについて2つの聖句を読んでみましょう。

神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。ヤコブ4章8節 聖書協会

神様に近づく前に、心を清めなさいとこの聖句は教えています。しかし、どのように心を清めることができるのでしょうか。

もう一つ聖句を読んでみましょう。詩篇51篇12節 P.885

神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。詩篇51篇12節 聖書協会

この聖句はダビデ王が、バテシバと姦淫の罪を犯した後、罪を悔い改めて祈った時の言葉です。ダビデは、清い心を新しく造り、正しい霊を与えてくださいと祈っています。

この2つの聖句は一見矛盾しているように思えます。ヤコブ4章は、心を清めなさいと教えています。ところが詩篇51では、ダビデが神様に清い心を創造してい下さいと祈っています。この2つの聖句をどのように理解すべきでしょうか。私たちは自分の心を清めることができるのでしょうか。心が清いとはどんな意味でしょうか。どのように私たちは心が清くなれるのでしょうか。

人間が思いついた自分を清くする2つの方法

宗教深い人も深くない人も、自分を清くする方法も感が付くものです。多分、これは人間の魂が、悪から離れて清くなることを望んでいるからではないでしょうか。聖書を信じる人たちも、例外ではありません。ここでキリスト教の歴史の中で、考えられた2つの方法をここでは紹介します。

ユダヤ教では自分を清くすることについて、次のように言っています。「自分の聖さは、律法に完璧に従うことによって得られる。」と明らかにしています。律法に完璧に従うことによって、自分自身を清く保とうとしたのです。これは、律法主義による人間の業です。

これは宗教心に熱心な人たちが思いつく、ごく自然な形かもしれません。この規則に従っていれば、清くなれると言われたら、多くの人たちがやってしまうでしょう。しかし、主イエス様は、このような事は教えませんでした。

もう一つの方法は、中世ヨーロッパで考えられました。この時代に多くの修道院が建てられました。そこでは修道僧が、世俗から離れ、この世の罪から離れ、罪深い人たち、罪深い物、世俗から離れて、神様に身を捧げたのです。彼らは朝早く起きて、聖書を一日中学びました。しかし、これも神様の御心ではありません。

キリスト者の聖化と清さ

わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。ヨハネ17章14-19節 聖書協会

主イエス様は、弟子たちを聖なる者にしてくださいと祈りました。聖なる者、つまり清い者としてくださいと祈ったのです。もう一点、気づいてほしいことがあります。主イエス様は、弟子たちをこの世から取り去ってくださいとは祈っていません。悪い者である悪魔から守ってくださいと祈ったのです。この世の世俗から離れて生きることは、神様の御心ではありません。

キリストの弟子であるキリスト者は、この世に生きていますが、悪魔が支配しているこの世の価値観に属していません。心の清い者になることは、基本的に神様の働きです。もちろん、私たちは心の清い者になりたいと熱望しますが、自分自身を清くすることは出来ません。ただ神様に、清い者にしてくださいと祈るのです。

心の清い人は幸い

神様の聖を求める心

心が清い者になるためには、先ほどもいいましたが、清い者になりたいと祈ります。父なる神様、主イエス・キリストは、私たちに聖なる者として生きる力を与えてくださいます。ですから、信仰によって一歩踏み出し、聖なる神様の御国を求めるのです。

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。1ヨハネ3章1-3節 聖書協会 

私たちは、神様に希望を持ち、主イエス・キリストが再臨された後の新しい世界を楽しみにしているのです。主イエスの再臨が、心の清い者になろうとする動機であり、この世で生きている間、神様の御国を求める原動力になっているのです。

主イエス様の再臨された後、新しい天と地が創られます。その時には、涙もないし、死もないし、もはや悲しみも嘆きも苦労もありません。ですから、私たちが新しい天地を待ち望む時、そのための準備として、心を清くしたいと望むのです。

完全な清さと主イエスの再臨

主イエス・キリストが再臨する時まで、完全な清さは私たちに存在しません。主イエス様が再臨するまで、まったく罪のない生活を送ることはできません。永遠の命をいただくとき、罪はなくなり、心が清められ、この朽ちる肉体も永遠の体に変えられます。聖霊なる神様に満たされて、永遠の命を生きるのです。

その時まで、私たちの霊的な戦いは続きます。悪魔が支配するこの世の中で、罪と闘いながら生きていくのです。私たちは、時々躓くことがあるかもしれません。無意識に罪を犯してしまう事もあるでしょう。悪魔にだまされて、この世の基準によって影響されて、物事を判断してしまう事もあるでしょう。

しかし、主イエス様は私たちに勝利を約束されました。私たちが主イエス様を信頼して生きていけば、勝利が与えられます。私たちが悪魔にだまされ躓いたとしても、主イエス様は、私たちを立ち上がらせ光の中で歩くことを許されます。これが私たちが成長していく、霊的なプロセスです。神様は、このようなキリストの弟子を聖霊の力によって助けてくださいます。

清い心と聖霊の働き

最後に、清い心と聖霊の働きについて考えてみましょう。自然にある湧き水は、常に流れていて純粋さを保っています。しかし、その流れが止まってしまい淀んでしまうと、水は菌で犯され汚くなってしまいます。

私たちの生活も同じように働いています。私たちの生活に聖霊が常に働き心を洗い流している時、私たちは霊的にフレッシュであり生きているのです。キリスト者のよどみ、汚れは、私たちの心が内側に向き自分勝手な思いによって心が動かされる時に起きます。私たちの心にカビのような黴菌が入ってくるのです。清い心ではありません。

心が清くなること、聖なる心になることは一瞬にしておきません。主イエス様のようになりたい、純粋であり清くありたいと願う事です。心から湧き出る願望が、私たちを主イエス様に一歩近くさせるのです。なぜなら、神様は聖霊の力を私たちに与えてくださるからです。

心が清い人々の神様の恵みは、神様をもっとはっきり見ることです。私たちは、神様の本当の恵みを受け、もう一歩近く天の神様と歩むことができます。そして、私たちが、主イエス様の再臨を待っている日々の生活の中で起きるのです。

私たちはこの混迷した罪深い世に生きていますから、この世の中の価値観、罪深い欲望に影響されやすいのです。結果として、私たちは自分自身をだますことになります。しかし、私たちは神の御国に生きているということを常に覚えておくべきです。神様は、悪魔の力さえ支配しておられるのです。私たちが主イエス様に目を向けていれば、心が清められます。私たちは、神の恵みを受け、神の支配を経験し、神の御国に生きることになるのです。

今週、心を清めてもらうように天の神様に祈りましょう。キリストの光の下で生きることができるように、主に一歩でも近く歩けるように、祈りましょう。

山上の説教