私たち人間は狂った世界で生きています。人類の歴史において、どうして世の中はこのようにくるってしまったのでしょうか。なぜ人間同士が憎み合うようになったのでしょうか。
それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。ローマ1章26-32節 聖書協会
神様によって創造された人間
神様は、人間を男と女に創造されました。つまり、人間は男性と女性に分けられ、個別のアイデンティティーが与えられている事を示しています。一人一人、別個の人間として創られたのです。しかし、人間は罪ゆえに、このアイデンティティーを失ってしまいました。
ローマ1章24ー28節は、同性愛について語っています。同性愛は、今に始まったことではありません。古代の大昔からある、人間たちの罪深い行いです。男同士が性的関係を持つ、女同士が性的な関係をもつといった、神様の創造の計画から離れて、生きるようになってしまったのです。しかし個人のIDを失った現象は、同性愛だけではありません。
人間は単なる動物の一種と考える人たちがいます。人間は、犬や猫と何ら変わりがない動物と考えられています。この考え方によれば、土の中にいるミミズは人間と元は同じなので、人間とミミズは何ら変わりはないのです。動物社会が弱肉強食なように、人間社会も弱肉強食が当たり前だと考えているのです。強い者だけが生き残るのが、人間社会でも暗黙の了解になっています。
しかし、このような考え方自体が、動植物と区別されて創造されたという人間のユニークさを放棄しているのです。人間たちは、神様が与えて下さった特別な役割、素晴らしい恵みをゴミ箱に捨ててしまっています。
人間が、この素晴らしいユニークさを失ってしまうと、何が起こるのでしょうか。人間は、神様から離れ自分勝手に物事を考えるようになります。何が正しくて、何が悪いのかは、自分のご都合主義によって決められてしまいます。人は自分のアイデンティティーがないから、自分の立ち位置がわからない、どこへ行っていいのかも、わかりません。自分がどこから来て、どこへ向かおうとしているのかも、知らないのです。
神様は、私たちが神様から離れても、私たちを愛しておられます。この愛に変わりはありません。しかし、私たち人間の方から、神様から離れて神様の愛を知らない存在になってしまいました。
この愛を失ったゆえに、私たちは常にどこかで愛されたいと思っているのではないでしょうか。失ってしまった愛を、取り戻したいといつも思っているではないでしょうか。親の愛だけでは足りません。何かもっと大切な愛がどこかにあると思っているのです。望郷の念、故郷を思うように、私たちは神様に渇望しています。しかしそれは間違った方法で現れてしまいます。
神様によって創造された私たちは、その大切なIDゆえに、本来、謙虚に自分を愛せはずです。だから、自分を愛すように、隣人を愛しなさいと教えられているのです。これは、神様が与えているI本来持つべき愛です。ところが、堕落した私たち人間は、この謙虚な愛を持てなくなってしまいました。自己中心的な偏屈な愛になってしまったのです。
狂った世界で生きている
罪人である人間には、認めてもらいたいという承認欲求があります。もっと強い場合には、自己顕示欲になります。自分が一番になりたいという自己中心的な愛が根底にあるのです。そのような人間を、私たちは決して良く思いません。嫌います。しかし、自分がそのような自己中心的な人間になっていることにも、気づいてはいないのです。人を嫌うということは、自分を嫌うことにもつながります。人間は、何と自己中心的な愛を持ちながら、その自己中心的な態度を嫌う矛盾した存在になってしまったのです。
ローマ1章が語るように、自分勝手で自己中心的な態度によって、この共同体の人間関係を壊してしまったのです。お互いに傷つけあい、お互いに憎しみ合う狂った世界に私たちは生きているのではないでそうか。ローマ1章が説明している社会は、現代の日本社会を説明しているように思えますが、数千年前からの人類の歴史を物語っているのです。人間の愚かさに変わりはないからです。罪深い人間に変わりがないのは、不思議なことはではありません。
現代社会は、スマホの影響からか、人間関係がさらに希薄になっています。「4人家族がファミレスに入ってきた。座ったら、まず4人ともスマホを見る。その間、会話はない。オーダーしなければならないから、スマホは少し中止。オーダーが終わると、4人ともそれぞれのスマホに戻る。」友達との人間関係も親子関係も、現代社会では崩壊してかけています。共同体という意識がなくなってきてしまったのです。

人間の無意味な努力を捨てて、主イエス様に
人間は、神様から離れて何とか自分の力と知恵によって、この狂った世の中から抜け出そうとします。多くの人たちは、お金や名声やこの世の中での高い地位に救いの手を求めようします。しかし、それらのお金を求める労力は、人間を疲れさせます。体も疲れ心も疲れてしまうのです。現代社会において、いったいどれほどの人たちが、精神科に通っているでしょうか。精神的な病の患者数は、数年の間に急激増えています。精神科医療の現状
なぜ私たち人間は、争い続けるのでしょうか。なぜ愚かな戦争は終わらないのでしょうか。戦争は愚かなことであると、誰も賛成するのになぜ終わらせることが出来ないのでしょうか。世界平和のために多くの人たちが活動していますが、この世の終わりまで戦争は終わらないーーーこれが人間の罪の現実です。
この狂った世界で生きている私たち人間に、主イエス様は救いの手を差し伸べています。人間は罪ゆえにもがき苦しみます。主イエス様は、この状態を罪の奴隷と言っています。誰も、自分が奴隷とは考えたくはありませんが、人間社会派は実際、悪魔によって操られているのです。主イエス様は、私たちを悪魔の奴隷状態から救ってくださいます。どうか主イエス様の下に行ってみてください。今もあなたに呼び掛けています。「わたしについて来なさい。わたしに学びなさい」と。
読者の皆様の上に、主イエス様の尊い祝福が宿りますように、心よりお祈り申し上げます。