人を導く愛なる神の不思議なわざについて考えてみます。神は、イエス・キリストを信じるようにと、私たち人間を常に招いています。不思議な方法で招いています。その一つの手段が人間が経験する試練です。苦しみに喘ぐとき、人は知らぬうちに神によって導かれているのです。自分で主イエス・キリストを信じるようになったとは思ってる人でも、実は神によって導かれていたのを気づいていないだけなのです。人間の目には見えない方法で、神は私たちの人生に働きかけています。
主イエス・キリストは私たち人間を招いていますが、父なる神ご自身が働きかけてくださっているのです。主イエス様は次のように言っています。
わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。ヨハネ6章44節 聖書協会
目に見えないところで働いている神は、人には不可解な方法で私たちに働きかけをしています。神は試練を通して、私たち人間に重要な人生の原則を教えている、と管理人は思います。人はいずれ滅びてしまう血肉の命だけで生きるのではなく、神とつながっている霊的な命で生きているという原則を教えているのです。
試練は神の目覚まし時計
試練は人間が生きていれば、必ずやってきます。いくら逃げても追いついてきて、私たちを苦しめる時があります。実は、それが神様が定めた人生の摂理です。試練は、神の目覚ましい時計です。「起きなさい。目を覚ましなさい」と言っているのです。
人生の試練はいろいろな形で人間を襲います。自然災害、交通事故、仕事の試練、家族の病気の試練、自分の病気の試練など様々です。それらの試練に対して、人はそれぞれ違った方法で対処しようとします。
(1)ある人は、自分の試練を恨み、自分の運のなさを嘆くでしょう。(2)ある人は、その試練の原因を他の人に求めようとします。旅行の途中で交通事故にあった人が、「今日、旅行に行こうと言ったお前のせいでこんな事故にあったのだ」などと言ったりします。(3)またある人は、自分の力と知恵で何とかその試練を乗り越えよとします。りっぱな努力家だとも言えます。このような人は、見事に自分の力で試練を乗り越えることもできるでしょう。(4)最後のタイプの人は、最初の3人とはまったく違った方法で対処しようとします。

天を仰ぎ問いかける人
最後のタイプの人は、たとえ神と主イエス・キリストを信じていなくても、天を仰ぎ問いかけるでしょう。「なぜこんな不幸が私に起きるのか。この災難にはどんな意味があるのか。私がこの災難から学ぶべきことは何なのか」と疑問を投げかけます。
私たち人間は、人が自然災害などで空しく死んでいくのを見聞する時、命のはかなさを感じます。何と人間は弱い存在なんだろうと知らされるのです。多くの人々は、こんな悲しい人生に何の意味があるのだろうかと自問していくのではないでしょうか。
これは、人が人生の意味や目的を探し求める始めの一歩です。神が、試練を通して働きかけている証しでもあります。さてここで人生の分岐点がやってきます。自分の道で生きていくのか、それとも主イエス・キリストが教える人生の道に従って生きていくのか。選択しなければなりません。チョイス!です。
人を導く愛なる神の不思議なわざ
神は、自然災害の様な人間にとって苦しい状況をも使って、私たち人間を招き導いています。また神は、世の中に蔓延する罪悪も人間の霊性を呼び起こす手段なのです。そのような時に、人は真理を求め始めます。創造主なる神への望郷の思いに駆られるのです。
イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」ヨハネ7章16-18節 聖書協会
その望郷の念が強ければ強いほど、その人はイエス・キリストが真実を語っているかどうかを問いかけるでしょう。他の宗教や哲学を勉強したとしても、その人が創造主なる神に立ち返ろうとすれば最終的には主イエス・キリストを信じるようになります。これはその人個人が主イエス・キリストを選んだとも言えますが、神の導きがなければあり得ない事なのです。
私が25歳の時、大きな交通事故を起こして、高速道路の脇で頭から血を流して座っていました。その時、見ず知らずの人がわざわざ車を止めて、私にタオルを渡してくれたのです。この方の親切は今でも忘れることは出来ません。病院に3カ月入院していましたが、あの時初めて、自分の力だけで粋(いき)がっていた愚かな自分を知ったのです。何か目に見えない力があるのを知ったのです。その時から、私は人生には何かもっと大きな原則、人間の力では計り知れない原則と真理があるのではないかと思うようになりました。これが私にとっての「主イエス・キリストの目覚まし時計」でした。
人は、決して自分の力だけで生きているのではありません。親、兄弟姉妹、友人、多くの人たちの助けがあって生きています。実は、それ以上の力が、私たち人間を支え助けてくださっているのです。
主キリストが投げてくれたロープにつかまる
不思議なことに、人はそれぞれ違った人生の道を歩みます。2人として同じ人生の道を歩む人はいません。同じような試練を経験しても、その対応の仕方が人それぞれ違います。どん底のまま海底にいるままの人もいます。自分の力で這い上がる人もいます。
私は人生のどん底にいた時、藁をつかむ思いで主イエス・キリストが投げてくれたロープにつかまりました。主イエス様のレスキューチームが来てくださいました。自分の力で這い上がるのではなくて、ただ主イエス・キリストのロープにつかまるだけでした。私がロープにしがみついた後は、主イエス・キリストが私を引き上げてくださったのです。
目に見えない力を唱える人は、この世に五万といるでしょう。その目に見えない力は、悪魔の働きかもしれません。しかし、悪魔を支配している主イエス・キリストは、真実を語っています。この方に嘘偽りは100%ありません。主イエス・キリストを知ることは、人生において一番の喜びです。言葉で言い表すことができません。目に見えない力、自分よりも大きな力が、自分の人生の中で働いています。自分は自分の力で生きているのではなく、生かされているという確信が生まれました。主イエス様が与えてくださる目的をもって、生かされている確信です。迷路の中をぐるぐる回っていた自分を考えると、夢のような話です。もう40年も前の話です。しかしこの喜びは、またフレッシュなままで息づいています。
天にいらっしゃる主イエス・キリストは、聖霊を通して、今も私たちに呼びかけて、導いてくださっています。真理を語っています。読者の皆様の上に、主イエス様の尊い祝福が宿り、導いてくださいますように、心よりお祈り申し上げます。