コンテンツへスキップ 投稿日:2023年3月5日/更新日:2025年2月28日

原罪と人間の罪の関係

ヘビに騙されたアダムとエバ

原罪と人間の罪の関係は何でしょうか? 原罪は簡単にいえば、「アダムの罪によってすべての人間が堕落して罪人になった」という教理です。原罪は、多くの教派に受け入れられている教理ですが、この教理が神の御心なのかを聖書に基づいて検証します。

原罪とは何か?

原罪という言葉は、聖書にはありません。聖書神学の専門用語です。原罪の概念を最初に提唱した人は、4-5世紀の神学者であるアウグスティヌスです。原罪の概念をもう少しかみ砕いていうと、次のようになります。「アダムの罪の霊的DNAが、すべての人間に遺伝的に受け継がれているため、すべての人間は罪人として生まれる。」

新生児も罪人して生まれてくるので、罪の赦しのために洗礼を受ける必要があるとアウグスティヌスは主張しています。参照図書 An Augustine Reader, Edited by John J. O’Meara. Image Books, 1973. アウグスティヌスの神学は、ローマ・カトリック教会の教理に多大な影響を与え、また16世紀の宗教改革者たちの神学をも方向づけたと思います。結果として、原罪は今も正統派の教理として受け入れられているのです。

しかしここで改めて、原罪の教理を検証してみましょう。多くの教派に受け入れられていますが、本当に正しいのでしょうか。

ローマの手紙5章12節の解釈

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。ローマ5章12節 聖書協会

ローマの手紙5章12節を正しく理解するために、ローマ手紙5章12節の文脈を最初に説明します。1世紀のユダヤ人は、民族をユダヤ人と異邦人(ユダヤ人以外の人種)の2種類に分けて考えていました。ところがパウロは、ローマ書で「ユダヤ人とギリシャ人」という区分けをしています。なぜでしょうか。歴史的文化的背景があります。ギリシャ文化は1世紀ローマ帝国全体に影響を及ぼしていたので、ユダヤ人たちは「ギリシャ人」を異邦人の代名詞のように使っていたのです。パウロは、その慣例に従って、ユダヤ人もギリシャ人も(つまり全人類が)罪の下にいると明言していているのです。

  • 1章。すべての異邦人(ユダヤ人以外の人種)はすべて罪人であり、神の怒りを受けるべき存在である。異邦人の罪を具体的に説明している。
  • 2章。ユダヤ人も異邦人と同様に罪を犯している。
  • 3章。主イエス・キリストへの信仰だけが、人間を罪の呪縛から救える。
  • 4章。その信仰の雛型が、ユダヤ人たちの父であるアブラハムの信仰である。
  • 5章1節-11節。クリスチャンには、信仰ゆえに神の平安と希望が与えられている。

上記のような事を書いた後、5章12節でパウロは、人間の罪の根源がどこにあるのかを、1章‐2章とは違った切り口で解き明かします。

原罪とは何か

アダムの罪が全人類に多大な影響を与えたのは、誤りない事実です。アダムの罪によって罪が世に入ったとは、どんな意味でしょうか。アダムによって罪が世に入ったことによって3つのことが起きます。

  • 悪魔がこの世の支配者となった。(ヨハネ14章30節、2コリント4章4節)
  • アダムと同じように、この世に生まれてくる人は悪魔によってだまされ罪を犯す。しかし罪人として、生まれてくるわけではない。
  • アダムと同じように、人は死を経験する。

この聖句は、「アダムの罪ゆえに、すべての人間が罪人として生まれてくる」とは教えていません。

原罪論者の解釈

原罪論者の決め手の聖句は詩篇51篇です。最初に歴史的な文脈を学びましょう。詩篇51篇の歴史的な背景を説明します。ダビデはバト・シェバと姦淫の罪を犯して発覚した後、詩篇51篇を書きました。この詩はダビデの罪の告白です。悔い改めの詩であり、神に憐れみを求めている信仰を言い表しています。その詩の中ほどダビデは、どれほど自分の罪が重いのかを告白して次のように書いています。

あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。(詩編51章5節-7節)

自分の母の胎内にいた時から罪人であったと、ダビデは告白してします。この言葉を文字通りに読むと、人間は生まれる前から、すでに罪にあった罪人であると解釈できます。この聖句について、多くの牧師が原罪の教理に沿って解釈していることを管理人は認識しています。

しかしながら、この聖句は詩の表現として考えられないでしょうか。旧約聖書の多く文献は詩に分類されます。その中には、詩篇51篇のような詩的表現が見受けられます。たとえば、ヨブ記31章18節を読んでみましょう。「生まれたときから」(新改訳2017)、「母の胎を出たときから」(新共同訳)やもめを導いたと書かれています。これは「赤ちゃんの時から」という意味ではなく、若い時からという意味での比喩的表現です。

51篇5節―7節も同様の詩的表現です。ダビデは、自分がどれほど罪深いかを、生まれる前にさかのぼって強調したのです。罪の汚い心が、自分のすべてを覆いかぶさっていると言いたかったのでしょう。それを表現するには、自分の罪の現状を説明するだけでは足りなかったのです。そのために母の胎内にいる時から、罪に下にあったと表現したのです。

人間の罪とは?

原罪を否定する人たち

マタイ18章3節-4節は、逆に「子供には罪がない」ことを証明するためによく引用されます。

1世紀のローマ帝国の文化において、小さな子供たちは、家庭内では奴隷よりも低いものとして扱われていました。小さな子供たちは、家の手伝いなどまったく出来なかったからです。また同時、女の子は嫁入りのための持参金が必要としていたので、捨てられてしまうことも多々ありました。

このような文化的背景があり、主イエス・キリストは「子供のようにへりくだった者にならなければ、天の御国にはいれない」と言ったのです。この聖句を「子供には罪はない」ことを主張するために使うのは、文脈から外れた誤った解釈です。

各個人が罪に対して責任を持つ意味

前597年にバビロン王国は、エルサレムを攻め入り陥落させました。この時代にエゼキエルは、神の御言葉を預言していました。エルサレム陥落の後、ユダの王ヨヤキンを含むユダの人々は、捕囚の民としてバビロンに連れていかれてしまいます(2列王記24章10節ー17節)。

エゼキエル18章2節「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」は、どのような意味があったのでしょうか(エレミヤ31章29節)。彼らは、この言葉を諺としてつぶやき、「自分たちの先祖の罪によって、私たちは捕囚の民になってしまった」と嘆いていたのです。

ところがエゼキエルの預言は、捕囚の民の思いとは正反対の言葉でした。親の罪が子供へと引き継がれることはありません。人は自分の親の罪のために死ぬことはありません。自分自身の罪によって死ぬのです。

どんなに善を行った人でも、気が変わって罪を犯せばその罪のための報いを受けます。その逆に罪を犯し続けた人が悔い改めたらどうでしょうか。神はその人を受け入れ祝福してくださいます。

アダムの罪ゆえに、まだ罪も犯していないのに罪を犯した罪人として、新生児は生まれてくるのでしょうか。人は罪の種を宿して生まれてきますが、罪人として生まれてはきません。生まれてきた新生児は、罪を知りません。悪魔によってだまされてもいません。しかし自我が芽生え、自分の欲求が一番と考えるようになるでしょう。罪の種が育ち、人は罪を犯すようになります。罪を犯し罪人になります。

このプロセスは、アダムが悪魔にだまされた時とまったく同じです。私たち人間は、アダムが犯した罪と同じパターンを踏襲します。アダムと同じように責任転嫁の言い訳をして、自分を正当化しようとします。原罪論者の主張は一部分は正しいのです。確かにアダムゆえに「人は罪を犯しますが、それはアダムの罪ではありません。アダムの罪のために、その人が神の裁きを受けるのではありません。その人自身の罪のために裁かれるのです。」

アダムが犯した罪ゆえに人間が負う重荷

この世の中、狂ってると感じたことはないでしょうか。ウクライナ戦争は言うに及ばず、最近は、強盗、殺人がいつもどこかで起きています。日本全国でいえば、多くの凶悪犯罪がどこかで起きています。多くの人々が、詐欺でだまされています。年金暮らしをしている多くのお年寄りが、騙されているのです。こんな世の中に誰がしたのでしょうか。いったい、いつから狂い始めたのでしょうか。狂った世の中の源泉、大元はどこにあるのでしょうか。

人類の歴史は良い時もあれば、狂ったように悪くなる時があります。しかし、この狂った世の中は、今に始まった事ではなく、人類の歴史が始まってからずっと続いています。神様が天地万物を創造され、神様に似せて人間アダムとエバを造りました。私たち人間の先祖です。この後、事件が起こります。アダムが神様の御心に反して罪を犯してしまうのです。ローマ5章12節を読んでみましょう。

ローマ5章12節は、アダムの罪を通して、罪が全人類に広がったとこの聖句を教えています。罪が、私たちの心に入っているのです。アダムと同じように、私たちも罪を犯してしまうと、この聖句は教えています。今日は、この聖句の意味について考えてみます。アダムの罪と私たちの罪の関係について、いっしょに考えてみましょう。

では最初にアダムがどのように罪を犯したのかを、創世記3章を読んでみましょう。アダムの罪の結果、4つの重荷が人間に課せられます。一番目は女性だけに課せられた重荷です。この記事では2,3,4に焦点を当てます。

  1. 女性の産みの苦しみ 全人類の女性の産みの苦しみです。
  2. 自然が牙をむくようになる
  3. 病気と死を経験するようになる
  4. 罪の種が人間の心に入った

自然が牙をむくようになる

アダムの罪以来、人間は汗水流して、働くようになりました。エデンの園では、常に食べ物が用意されていました。しかし、私たち人間は、そのエデンの園を離れたのです。食べ物を得るために、私たちは働くように、神様に定められました。

自分の手で働くのが、人間の使命となりました。働くことは、人間にとって、重荷でもありますが、神様の恵みでもあります。

自然は人間に対して、常に恵みを与えてくれるわけではありません。寒すぎる時もあれば、熱すぎる時もあります。時に、自然が人間に牙をむいて襲ってきます。

2023年も、多くの自然災害が起きます。台風や地震や洪水といった自然災害が、私たち人間を苦しめます。これは実は、悪魔のイタズラです。神様が、悪魔が働くのを赦しているのです。

死と病気を経験する

永遠の命の木から食べないようにと、アダムとエバはエデンの園を追い出されました。私たちも同じです。その結果、すべての人間が死を経験するのです。

古代から、人間は不老長寿の薬を求めました。なぜでしょうか。その理由は、死を恐れているからです。人は徐々に衰えていきます。10年前の自分の写真を見てみましょう。どれ程、変わっているでしょうか。若くはなっていないはずです!!!!

そればかりではありません。人間は死だけでなく、死に至るまでのいろいろな病を経験するようになります。医学が進んで人間は長生きするようになりました。しかし、医学がどれ程進んでも、肉体的に永遠には生きられません。死に至る病にはかないません。

ルカ13章16節で、主イエス様は、病気で長い間苦しんでいた女性を見て、「この女は18年もの間、サタンに縛られていたのだ」と言っています。このように、私たちが経験する病気も悪魔のイタズラなのです。

罪の種が人間の心に入る

アダムと同じように悪魔にだまされてしまう私たちの心に、罪の種が植えられました。誰もが、持っている罪の種です。この種が成長していき、幼い子供までも罪を犯してしまいます。

アダムは、罪を犯し、自分の罪を認めず言い訳をしました。私たちも、私たちも、悪魔に騙され、同じような過ちを繰り返します。自分の過ちを認めず、言い訳をします。悪魔は常に私たちを誘惑しています。私たちに言っています。「これはお前の人生。好き勝手に生きろ」と。

悪魔は、私たちが神様を信じないようにしむけています。お互いに人間不信になるように、導こうとしています。

私たちに希望はあるのでしょうか

この混迷している世の中で生きている私たちに、希望はあるのでしょうか。アダムは、エデンの園から追い出されて、永遠に生きないようにされました。その罪の結果、私たちはいろいろな重荷を背負って生きています。

主イエス様は、この人間の罪と死の重荷をひっくり返して、180度変えたのです。私たちは、主イエス様によって、まったく新しい人生を歩むことができると教えられています。永遠の命とは、どんなものでしょうか。まだわかりません。しかし、主イエス様を信じて信頼の関係にあれば、少しだけ味わうことができるのです。

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。ヨハネ17章3節

私たちは、永遠がどんなものか知りません。だから、永遠の命がどんなものかも知らないのです。しかし、天にいらっしゃる永遠なる唯一の神様を信じ、主イエス様を知ることによって、少しだけ永遠の命の祝福を経験しているのです。これは、おそらく言葉では説明できません。

私たちが、新しい天と地に招かれた時にすべてが明かされます。どんなにこの世が暗くなっても、狂っても、私たちは主イエス・キリストに希望をもっています。すべての悪が裁かれる時が来るからです。苦しみも悲しみもない、病気も死もない新しい天と地を待ち望み、主イエス様に目を向け、日々過ごしましょう。