旧約聖書の権威についての読み方の変革を、歴史を追って説明します。新しい契約下にあるクリスチャンにとって、旧約聖書の権威はどのような位置づけを持っているのでしょうか。どれほど重要だと思いますか。旧約聖書をどのように読んだらいいのでしょうか。
旧約聖書の読み方の変化
旧約聖書の権威は、クリスチャンの信仰の根幹をなす重要な要素です。
まず、キリスト教の歴史の中で旧約聖書の読み方が変化してきた過程を検証してみましょう。
マルキオン
旧約聖書を軽視した2世紀のクリスチャン、マルキオンという人の主張をみてみます。マルキオンは、2世紀初頭、120年頃の異端のクリスチャンでした。彼は、二元論者であり世界を物質的なものと霊的なものとに分けていました。彼は、物質的なものは悪であり、霊的なものは善であると主張していたのです。
- 外部リンク Wikipedia マルキオン
彼は旧約聖書の権威を否定することで、信者たちに新たな道を示そうとしました。
彼の主張は、旧約聖書の権威への疑問を広めるものでしたが、多くのクリスチャンには受け入れられませんでした。
マルキオンは、二元論を聖書に示されている神に適応して考えたのです。旧約聖書に示されている神は、物質的な神であり裁きの神であると説いたのです。物質的な創造は悪であり、その物質的なものを創造した旧約聖書の神は完全な神ではない。むしろ、劣っている神であると説いたのです。一方、旧約聖書に示されている神は、霊的な神であり愛なる神であると説いたのです。この愛なる神は、旧約聖書の神とは異なり完全な神の御心を示したと説いたのです。
そのため、旧約聖書の権威に対する理解が深まることが求められました。
こうなると、必然的に旧約聖書と新約聖書を完全に切り離して考えるようになります。つまり、旧約聖書は必要ないという結論に至ります。愛のない神、邪悪な物を造った神は必要ないのです。マルキオンに信望した信者たちにとって、旧約聖書は完全に無用の産物であったのです。マルキオンは、最終的に異端として扱われるようになりましたが、マルキオンと同時代のクリスチャンたちが少なからず同じような考え方をもっていたのではないかと想像されます。2世紀の時点では、旧約聖書をどのように読むか、クリスチャンリーダーの間で合意に至っていたわけではありませんでした。
旧約聖書には、クリスチャンと相反する多くの価値観や命令があることに、私たちは気づかされます。戦争があったり、一夫多妻制があったりです。ゆえにクリスチャンは旧約聖書の取り扱いに悩むわけです。
オリゲネス

一つの読み方として、新約聖書から旧約聖書を読む方法があります。2-3世紀の神学者であったオリゲネスは、旧約聖書を字義通りに解釈するのではなく、比喩的に解釈しています。たとえば、出エジプト記17章8節-15節の解釈が彼の典型的な解釈です。オリゲネスは、モーセが手を上げている姿は十字架を象徴していると解釈しました。
Origen “On First Principle” from Amazon
またもう一つ、新約聖書から旧約を読む方法として、旧約聖書はすべてキリストについて預言していると考える解釈です。 たとえば、創世記1章3節の「光よあれ」は、ヨハネ1章1節-5節で「このいのちは人の光であった。光はやみの中でに輝いている」、この聖句を預言していると解釈するのです。
マルチン・ルター

マルチン・ルターは、宗教改革の大きなうねりを造るきっかけを作った人です。プロテスタント諸教会にもっとも大きな影響を与えました。ルターは、創世記32章22節-32節でヤコブが格闘した人を、イエス・キリストだと解釈しています。この解釈の正否はわかりませんが、多くの注解書に書かれていますので、ルターの影響力は大きいのには正直、驚かされます。
このような読み方、旧約聖書には新約聖書の内容が投影されているという考え方は、多くの教団、教派に広まっていきました。
旧約聖書は新約聖書より下に位置付けられた
結果的に、新約聖書に照らし合わせて、その基準に合ってるものだけを読む方法が、典型的な読み方になっていきました。旧約聖書を取捨選択するわけです。新約聖書にそぐわない聖句はまったく無視することになります。仮に読んだとしても、クリスチャンには適応できないので無関心になるようになります。
結果として長いキリスト教の歴史の中で、「旧約聖書は新約聖書より下に位置づけられ、あまり読まなくても良い」と判断されるになりました。 本当にそれが神の御心に適った旧約聖書の読み方でしょうか。新しい契約下にあるクリスチャンは、旧約聖書の権威をどのようにとらえたらいいのでしょうか。

主イエス様が認めた旧約聖書の権威
旧約聖書は、クリスチャンにとって権威ある神の御言葉なのでしょうか。クリスチャンの信仰は、主イエス・キリストにあります。しかし、信仰を形作る土台は、旧約聖書の教えと戒めにあるのです。
まず、イエス・キリストは、旧約聖書をどのように扱ったかを考えてみましょう。主イエスは、旧約聖書を神の言葉として引用しています。つまり、神の言葉としての旧約聖書の権威を認めているのです。
では、新約聖書の中で使徒パウロが書いた手紙では、旧約聖書について何と言っているでしょうか。新しい契約が成就された後に、これらの手紙が書かれたのです。
また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。2テモテ3章15節-17節 聖書協会
上記の聖句で使徒パウロが指している聖書とは、明らかに旧約聖書を指しています。テモテは、ユダヤ人の母親と祖母をもち、幼い頃から旧約聖書に親しんできたのです。旧約聖書は神の御言葉であると、新しい契約下にあるパウロも、その権威を認めています。
このように、旧約聖書の権威は、クリスチャンにとって欠かせない教えの源となっています。旧約聖書の権威は、信仰を形成する上での基盤を提供しています。
ガラテヤ3章で、使徒パウロは、旧約聖書の役割について説明しています。第一に、旧約聖書の律法は、すべての人が罪に定められていることを啓示しています。すべての人間が、罪人であることを旧約聖書は証明しているのです。さらにパウロは、旧約聖書の役割を次のように説明しています。
第二に、旧約聖書の律法は、人間を主イエス・キリストへと導く道しるべ、あるいは教育係の役目を担っています。旧約聖書を読めば、自分の罪深さを知り、主イエス・キリストの十字架の贖いを必要としていることを、私たちは知るのです。
旧約聖書の権威を認める読み方-5つの視点
- 主イエス・キリストは、旧約聖書を神のみことばとして、その権威を認めていました。
- 初代クリスチャンにとって「聖書」とは、旧約聖書を指していました。初代クリスチャンは、私たちが今持っている新約聖書はもっていなかったのです。旧約聖書を神のみことばとして、受け入れていました。
- 旧約聖書は、神の働き、愛、力、および人間の罪、愚かさを教えています。
- 初代クリスチャンは、律法および旧約聖書を、主イエス・キリストへと導く道しるべ、教育係として受け入れていました。
- 旧約聖書の律法と預言は、主イエス・キリストによって成就されました。新しい契約の律法は、主イエス・キリストご自身です。
外部リンク 戦争と文化(17)――聖書には「汝、殺すなかれ」とあるのに、どうして、ユダヤ=キリスト教は戦争や暴力行為を後押ししてきたのか?