一生に一度、死ぬまでに読むべき本があるとすれば、何だろうか。その答えは聖書だと思う。聖書は世界のベストセラーだ。もしかしたらあなたの人生を根本的に変えるかもしれない。
世界のベストセラー 「聖書」は、多くのアジア諸国の人々に読まれている。しかし、なぜか、日本人は聖書を読まない。
食べず嫌いの人が、食べる前から「これ何ですか?」と聞いてくる。そういう人に「そうですねぇ、食べてみないと分らないでしょう」と私は答えることにしている。聖書も同様に「食べてみない」と味がわからない。実際に聖書を読んでみないと、その良さが分らない。宗教だからといって聖書を避けているのであれば、大損しているかもしれない。
聖書は一生に一度は読むべき本 その理由は?
人生の道は、人によって千差万別だ。巨額の富を築き順風漫歩に見える人生も、一瞬のうちのそのすべてを失う事もあり得る。また名誉と名声を得ていても、内情は不幸な人もいるものだ。逆に貧乏であっても幸せな暮らしをしている人もいる。経済的にはそれほど豊かな国ではないブータンが、世界で一番幸せな国と呼ばれることもある。
人生は迷路だ。心の底から湧き出る幸せの道を見つけるのは、至難の業である。私たち人間の創造主である神は、人生の幸せの法則を聖書に示している。主イエス・キリストの戒めに正しく従う人生を送れば、必ず幸せは舞い込んでくると約束されている。
インドの宗教家、政治家であったをマハトマ・ガンジーは、「私の生涯に最も深い影響を与えた書物は聖書である」と言ったとされている。ガンジーはクリスチャンではなかったが、聖書を読んだ。このように、イエス・キリストを信じなくても、聖書は一生に一度は読んでおくべきである。
「宝の持ち腐れ」ということばがあるが、その意味は、役に立つ物を持ちながら利用しないことだ。聖書についても同じことが言える。人生で行き場がなくなったとき、考えても答えが見つからない問題にぶつかったとき、生きている意味を見失ったとき、普段から聖書を読んでいれば、答えのヒントが与えられる。「宝の持ち腐れ」にせず、聖書を読んでみよう。

聖書は何度でも読むべき本 その理由は?
聖書は一生に一度は読むべき書であるが、何度でも読んでも良い書だと思う。キリストを信じていようがいまいが、まったく関係ないのである。その理由は何だろうか。3つの理由がある。
1.自分の人生には目的があることを知る
すべての人間は、創造主なる神に似せられた者として、他の動植物とは区別され創造されたと聖書に書かれている。人間が造る物すべてに目的があるように、神が創造されたすべてに目的がある。人間はその最たる存在だと思う。
かの名優、高倉健さんは、雑誌インタビューの中で「自分は生かされていると思う」と言っていた。この方はクリスチャンではなかったが、目に見えない力を感じたのだろう。その力によって、自分が生かされていると感じたに違いない。
私たちが生きているこの世には、悲しい事件が多すぎる。この様な悲しい事件ばかり見ている人生は、どちらの方向に行ったらわからない迷路のようだ。多くの人が、この迷路の中でもがき苦しんでいる。しかし、聖書のことばを何回も読むことによって、人生の明るい方向を見る視点が与えられる。たとえ試練や困難があったとしても、それを人生の肥やしとして生き抜いていくための知恵が与えられるのだ。これは人生の指針ともいえる。だから、聖書を何回も読んだ人は、人生を前向きに生きていけるのだ。
2.自分に対して謙虚になる
聖書を何回も読んでいると、読むたびに人生について違った視点が与えられる。心に「気づき」が起きるのだ。現実社会を観察していると、人の人生の不思議を垣間見ることがある。水難事故にあって、ある人は助かりある人は死んでしまう。まったく同じ状況に置かれながら、人はそれぞれ違った人生を歩んでいくのである。
不幸は忘れたころにやってくると言われる。私たち人間は、未来のことはまったくわからないのだ。私たちは、明日の命も知り得ない存在である。そのように考えると、何でも知っているようなことを言っていた自分が恥ずかしくなる。
聖書は、私たちが生きる人生の不思議について、新しい新鮮な観点から語っている。聖書を読んでいると、この新鮮さが胸の奥底に響き渡る時がある。今まで想像もしなかったような考え方を示してくれる時があるのだ。読者の皆様にも、同じ響きが伝わると思う。
3.人間関係が改善する
人間関係は、いつの時代でも、どんな社会に生きていても難しいものだろう。人間関係で辛い経験をして、学ぶことも必要だ。しかし、辛い経験だけして人間関係がどんどん悪くなってしまう人が、この世の中には大勢いる。この人間社会は、ギスギスし過ぎて潤滑油がまったくなくなってしまった状態だ。特に管理人が住んでいる東京のような大都会の人込みでは、肩がぶつかっただけでも喧嘩になってしまう人もいるのだ。
ところが、聖書を何回も読んでいると、先ほども書いたように謙虚になれるのだ。自分の愚かさに気づかされる。その分、他の人を敬うことが出来るようになれる。他の人に対する思いやりも生まれてくる。人格に丸みが帯びてくる。
当然、人間関係が良くなる。聖書は、人間関係をよくする教科書のようなものだと思う。だから、何度でも読んでも良いのだ。人が書く人間関係に関する本は、見落としている点がたくさんある。なぜなら、その著者の限られた経験則に基づくものだからだ。しかし、聖書は人間関係のすべての観点から見ているので、読者はありとあらゆる場面で聖書の言葉を思い出すだろう。
悪知恵という言葉があるように、人間の知恵は自己中心的な知恵になりがちだ。しかし、聖書が教える知恵は違う。 他の人の権利や気持ちを敬いながらも、自分が主張すべき所はきちんと言えるような知恵を教えてくれる。自らをトラブルに招く悪を避け、正しいことをしていくための神の知恵を指南してくれるのだ。聖書を読むと神の知恵を知り、人間は賢く生きていける。これは神様がみことばを通して与えている恵みだと思う。
聖書は死ぬまでに読むべき本 その理由は?
最後に、死ぬまでに聖書を読むべき理由を考えてみよう。それは聖書がある重要なことを預言しているからである。その預言とは? この世には終わりがあり、最後の裁きのときには、すべての人間が聖書の教えをもとにして裁かれるという預言だ。万が一でも、もしこれが本当であれば、死ぬ前までに、聖書を読んでおくべきではなかろうか。
人間の命はいつ亡くなってもおかしくはない。年老いて寿命で亡くなる人もいれば、事故で命をおとす人もいる。未来については、私たち人間は何も知らない。
死んでからでは遅いのである。この地上に生きている間でしか、聖書を読めない。仏教では、死後の世界で、人は皆救われ御仏になると言われている。これが本当であれば、聖書を読む必要はない。しかし、聖書の預言が真実であれば、真剣に聖書を読むべきではなかろうか。名探偵コナンの名セリフみたいだが、「真実はいつも一つだ。」
今日からでも、聖書を読んでみよう。生きている間に良いことを始めるのに、遅すぎることはない。聖書を読んで、死生観が変わるかもしれない。生き方が良い方向に向かう。
ぜひ一生に一度だけでもいいから、聖書を読んでみよう。何度も読んでいると、必ず人生に良い方向に変化すると管理人は信じている。読者の皆様の上に、神様の尊い恵みが宿るように、心より祈ります。