弟子たちは、受け入れと拒否のなか福音を伝えます。それを終え喜んで主イエスのもとに帰ります。主は彼らの喜びを受け止めつつ、喜びは天に彼らの名が書かれていることと言われます。そして、イエスの喜びです。聖霊により、父なる神との交わりで生まれる喜びです。それから、主イエスを見る者の目の幸いを明らかにします。
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲れた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」ルカ福音書 第10章25~37節 聖書協会
永遠のいのちの問い
都への途上、弟子訓練を続けるイエスに様々な事が起こります。ここは、イエスをためそうとして、とあります。律法の専門家が現れ威厳を鼓舞しようとしたのでしょうか。「ためそうと」イエスを見下す態度です。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」先生、と呼び問うのは万人の関心ごとです。律法の専門家です、律法を議論することも出来たはずです。しかし、問いは永遠のいのちのことです。
律法自体を知ることが目的ではありません。究極の目的は、律法が導く永遠のいのちにあずかることです。律法の役割は、永遠のいのちの源を指し示すことです。専門家は、未だ自分のものとしていない永遠のいのちをイエスに問います。「何をしたら」とあります。自分が何かをすれば、永遠のいのちを自分のものにできると考えたふしがあります。しかし、永遠のいのちへの道筋を自分のものには出来ていません。
会話が続き、自分の関心事の答えをイエスに求めます。自分中心でことを進める、罪深い態度が露わになります。それでも、イエスは会話を断ちません。イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」イエスが問いかけます。問いは、こころみようとする者が得意とする律法についてです。専門家は即答します。しかし、まだ永遠のいのちが自分のものとして受けていません。
イエスの問い
イエスのことばからそのわけが推測できます。一つは、「あなたはどう読んでいますか」の問いです。読み方に課題があります。後に読み方の課題が明らかになります。その前に、私たちの聖書の読み方はどうでしょう。苦難を乗り越える支え、また、自分の考えを発表するため、世界を見、聖書を当てはめ説く、知識や情報としての読み方もあるかもしれません。説教に備えて読むでしょうか。「あなたはどう読んでいますか」と私たちにも問います。
律法の専門家は即答します。律法を文字通り紹介したことをイエスは好意的にうけとめます。イエスは言われるのです。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」初めに、そのとおりと、イエスに太鼓判を押されます。弟子たちの前で、専門家の面目躍如です。まわりの人々も、イエスと専門家との対話を興味深く聞き入っていたでしょう。専門家もひときわ目立ったでしょう。良い気分になったでしょう。

知っていること生きること
ところが、直後のイエスの「それを実行しなさい」の御声を聞きます。法の読み方は合格です。それを行いなさいと、さらに言われたことは、律法の読み方に欠けがあります。神への愛、自分と隣人への愛が欠けていました。口先まではスラスラ出て来ました。しかし、神への愛、その愛から生まれる従順がみられません。
専門家は愛の関係を読み外し、自分の正しさを示そうとイエスに新たな問いをします。本来ならば、律法の言葉に深く聞き、そこから聞こえる真実に身を置くことが大事なはずです。暗唱し、語った律法が自身の信仰告白となり、神との愛の関係に目が開かれ、それに生かされるべきです。しかし、「何をしたら」と主張し、自分の正しさが律法より優位にあったのです。
自分の正統性に固執して問います。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」専門家が、律法に刻印されている最も肝心な愛を無視し、自分の正しさに固執し議論をします。理屈で挑み、問う専門家に、イエスは物語で応答します。いっしょに物語を歩むよう専門家を招きます。こころみる者が、イエスの語る物語に巻き込まれます。物語で、自分がイエスに問いかけた答に出会います。問う者が、やがてイエスに問われます。
サマリヤ人
ある人が道中強盗に襲われます。瀕死の状態を遠巻きに見て、祭司が通り抜け、レビ人が通り過ぎます。彼らも、専門家同様、律法を暗唱する者たちです。家族がいます、お勤めもあります、倒れた者に触れ汚れては祭儀が出来ません。危険なところに留まれません。律法の専門家は物語に登場する同僚が、瀕死の者を横目に通り過ぎた姿勢には納得しないでしょう。しかし、自分がそこにいたらどうだろう。彼らと同じかもしれない。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこを通ります。急いでいたでしょう。「ところが」です。彼を見て、かわいそうに思い介抱します。倒れていた者を自分の家畜に乗せ、宿屋につれてゆき、主人に面倒みてくださいと願います。費用のいっさいを負担します、と言い残し旅立ちます。「かわいそうに思い」、は、思わず駆け寄る、あわれみを意味します。我を忘れ、危険を厭わず、手を差し伸べる、愛の行動の言葉です。
サマリヤ人は、ユダヤ人から見れば、他国支配に甘んじ、民族の誇りを捨て、エルサレムに対抗し、ゲルジム山に神殿を建てた許し難い、軽蔑の民です。彼らはユダヤ社会で辛い目にあったでしょう。このサマリヤ人が傷つく者に駆け寄り、あわれみの行動をとります。受けた痛みを、あわれみに変え旅人に駆け寄ります。
三人のうちだれが、路上の者の隣人になりましたか、とイエスは問います。こころみようとした者がこころみられます。専門家は「だれが私の隣人ですか」と問う、イエスは「だれが隣人となったのか」と問います。彼は答えます。あわれみをかけてやった人です。「イエスは言われた。『あなたも行って同じようにしなさい。』」
これは、あなたの物語です。神が先ずあなたを愛しました。その愛で神を愛し、隣人と自分を愛する関係を生きなさい。神との愛の関係、ここに永遠のいのちがあります。聖書をあなたに合わせるのではなく、あなたが聖書のなかに入りなさい。お語りになっている主に捕らえられるのです。
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