コンテンツへスキップ 投稿日:2025年1月30日/更新日:2025年3月15日

ヨハネの福音書4章16節-神を礼拝する場所とは?

神を礼拝する

神を礼拝する場所はどこでしょうか。ローマ法王がいるバチカンでしょうか。キリスト教に聖地のような場所はあるのでしょうか。神様を礼拝する意味は何でしょうか。

イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」ヨハネ4章16-26節 聖書協会

主イエス・キリストは、場所を選ばずどこでも神を礼拝する意味を説明しています。しかし、その当時の人々にとって、これは奇想天外な言葉です。ユダヤ人たちは、エルサレムを聖地と考え、遠方から来て礼拝をささげていました。主イエス様は、そのような常識を覆したのです。

神を礼拝する場所

サマリヤの人々は、民族的にいえばイスラエルと異邦人のハーフです。しかし、彼らは創造主なる神様を信じサマリヤで礼拝していました。ユダヤ教の聖地エルサレムでは礼拝が許されていなかったからです。1世紀のユダヤ人もサマリヤ人は、旧い契約のしきたりに従って礼拝を考えていました。旧い契約では、幕屋または神殿が建てられ、そこが正式な礼拝の場所でありました。神殿には、神が宿っていると信じられていたのです。実際に、主なる神様もそのように言っています。神殿は、イスラエルの人々のために、神様の存在の象徴として建てられました。簡単にいえば、旧い契約の礼拝は、物理的な神殿を中心に行われていたと言えます。

ところが、主イエス・キリストは、サマリヤの山でもなくエルサレムでもないところで、神様を礼拝する時がくるというのです。主イエス様は、場所を選ばず誰もがいつでも礼拝できると言ったのです。これは衝撃的な預言です。サマリヤの女性もビックリしたに違いありません。

新しい契約では、どのように場所を選ばずに礼拝できるのでしょうか。へブルの手紙4-10章には、主イエス・キリストが自らを人間の罪のいけにえとしてささげた業によって、私たちは場所を選ばず、どこでも神様を褒めたたえることができると書かれています。この個所全部を引用は出来ませんので、主要な部分を下に引用します。

さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました(9章1節)。…けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです(9章11-12節)。…それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れいると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか(10章19-20節)。聖書協会

旧い契約では、祭司が礼拝を取り次ぎ、一般のイスラエル人は幕屋の奥には入ることが許されていませんでした。しかし、主イエス・キリストは御自分の十字架の贖いによって、この物理的な敷居を取り除いたのです。主イエス・キリストを信じる者は誰でも、天にいらっしゃる神に近づくことができます。主イエス様の名によって、どこでもいつでも礼拝できるのです。

へブルの著者は、教会での集会を怠ったりせずに、お互いに励ましあい礼拝するように励ましています。新しい契約での礼拝は、ただの人間に過ぎない罪人である祭司を通して取り次がれる物質的な礼拝ではなく、神の一人子、主イエス様を通して神とつながる霊的な礼拝なのです。ゆえに特定の場所にとらわれずに、礼拝ができるのです。本物のキリスト教に聖地のような特別な場所はありません。

神を礼拝する

神は霊である。霊と真理によって礼拝する

創造主なる神様は、霊なるお方です。物理的な建物内に収められる方ではありません。一方は、私たち人間は、神様によって神様に似せられた者として創造されました。肉体の命をあずかっていますが、同時に霊的な存在です。

霊的な存在である人間は、聖霊なる神様を受ける器なのです。神様を礼拝するために、クリスチャンは聖霊と真理が与えられました。この聖霊と真理によって、クリスチャンはどこでもいつでも、神様を礼拝できるのです。ユダヤ教の聖地エルサレムやカトリック宗教の聖地ローマに行く必要もありません。主イエス様が、聖霊としていつもクリスチャンに宿っているからです。

このサマリヤの女性も、メシアが来ることを待ち望んでいました。すべての真理を教えてくれるキリストであるメシアが、いつかサマリヤ人を含めたイスラエルの国を復興させるに違いないと信じていたのです。

この女性の期待と信仰に主イエス様は応えます。「わたしがキリストである」と。これも衝撃的な言葉です。この時こそ、飛び上がるほどビックリしたでしょう。自分の過去をすべて言い当てたこの方こそ、メシアでありキリストであると信じたのです。

21世紀に神を礼拝する特権

神の御言葉は、21世紀の今も息づいています。主イエス・キリストは、私たちが心から信頼できる大祭司です。父なる神様に私たちたち人間を取り次いでくださる方です。

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、、、、この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。へブル4章14-16節 聖書協会

私たちは主イエス・キリストをこの目で見ることはできません。しかし、この方は天にいらして、父なる神の右の座に座り、私たちの大祭司として天地万物を支配しておられます。ですから、私たちは父なる神の恵みに預かることができるのです。

主イエス様は、私たちの信仰の創始者であり完成者です。そしてこの方に目を向けて生きていくことがクリスチャンの命題です。地上にいた時、サマリアの女性に話しかけたと同じように、主イエス様は私たち人間一人一人に、今も私たちに呼びかけています。「わたしを信じ、ついてきなさい」と。主イエス・キリストは、すべての文化・時代を超えて、永遠の真理を語っています。

キリスト教の礼拝は、クリスチャンではない人のための旅行の一部の観光のように捉えられているようです。教会の「ミサ」「日曜礼拝」初心者ガイド これは悲しいことです。礼拝は、観光ツアーの一部に入るようなものではありません。また美術館や博物館のように入場料を払って鑑賞するものでもありません。礼拝によって、天にいらっしゃる私たち人間の創造主なる神を、褒めたたえるのです。

イエス・キリストを信じる人は、神の子供として受け入れられ、神を主イエスの名によって礼拝できる特権が与えられています。日々、どこでも礼拝できるのです。朝起きて祈り神を礼拝します。しかし同時に、主イエス様はキリストを信じる人々の共同体である教会を建ててださいました。キリスト者が支えあう共同体を創ってくださったのです。教会での礼拝も神の御心の一部であることを忘れないようにしましょう。