現代人から見れば、聖書には多くの矛盾が存在します。聖書の矛盾と間違いが多くの人たちによって指摘されています。それらの批判に真正面から向き合い、聖書が書かれた歴史的、文化的背景を解説しつつ、聖書の矛盾を理論的に説明します。
このページの目的は、聖書の真実性について理論的かつ知的な道筋を示そうというものです。盲目的に聖書の真実性を信じるのではなくて、むしろはっきりと目を見開いて「知的な疑問」にチャレンジしていきます。
Internet上では、聖書に関する多くのサイトが開かれ、無神論者からクリスチャンまで(それも違った伝統と教理をもったクリスチャン)、様々な立場の方々がご自分のご意見を書かれています。それらのサイトに反する意見も数多く寄せられているようです。言論の自由という意味でよい事ですが、時として、建設的な議論というよりは、論争のようになってしまうこともあるようです。しかし、このような聖書に関する論争は益のないものです。むしろこのページを読んで、「あー、こういう考え方もあったのか」と気軽に考えていただければ幸いです。
聖書の学びは霊的なものですが、同時に、理論的考察も必要とされています。聖書を正しく解釈せずに、聖書の矛盾を指摘しても無意味なことです。
聖書の歴史観と現代科学の歴史観の違いを理解せずに、聖書の矛盾に答えることは浅はかなことです。21世紀現代人の世界観で聖書を読めば、多くの矛盾と思われる個所があるのは当然です。
具体的な矛盾の検証
創世記1章と2章の内容には、聖書批評者から矛盾と指摘される個所があります。この2章の個所を比較して、現代人にとってなぜ矛盾と思えるのかを説明します。
新約聖書にも多くの矛盾と思われる個所があります。その中でもっともハッキリしている箇所、マタイ4章とルカ4章を比較して、どのように解釈すべきかを解説します。
- 外部リンク 聖書の間違い
本題に入る前に、聖書が書かれている内容に、間違いではなくて違いがある事について、一つ考えて頂きたいことがあります。日本には全国紙と呼ばれる新聞がいくつかありますが、その新聞各社が事件や世界の出来事を報道します。しかし、それらの新聞各社は同じようなことばを使い、まったく同じ内容の記事は書きません。新聞記事を書いている記者が違うからです。書いている視点も違うからです。正確さが要求される新聞報道でさえそれぐらいの事はあるのです。
聖書は、数千年の時代を経て、違った人たちによって書かれた書です。違った視点から書かれているゆえに、違いがあって当然ではないでしょうか。では最初に旧約聖書でよく指摘される違いについて考えてみます。
最後に一言。クリスチャンの中には、クリスチャンの意見と反対している人をバカにするような投稿・サイトを見受けますが、それこそ愚の骨頂です。主キリストは、隣人を愛しなさいと教えています。人を裁くようなことは、クリスチャンの行いではありません。
最初に比較的な簡単な個所、新約聖書の矛盾と指摘されるマタイ4章とルカ4章について説明します。次に旧約聖書の矛盾を解説します。旧約聖書には、多くの矛盾と思われる個所があります。その中でも一番先に取り上げられる箇所が、創世記1章と2章です。創世記1章と2章の記述の違いについて解説します。

新約聖書の矛盾 マタイ4章1節‐11節とルカ4章1節‐13節
新約聖書の矛盾について解説します。新約聖書には、矛盾と思える個所は多く存在します。ここでは、はっきりと「違い」がわかる個所、マタイ4章1節‐11節とルカ4章1節‐13節 を取り上げて解説します。
同じ出来事が、マタイの福音書とルカの福音書に記されています。もし、聖書をお持ちであれば、マタイ4章1節‐11節とルカ4章1節‐13節を読み比べてみましょう。
ここで取り上げる2つの個所には、はっきりとした違いがあります。イエス・キリストの誘惑の順序が違いますし、悪魔がイエス・キリストに言っていることばも多少違います。
- マタイ4章1節ー11節 「神の子なら、こららの石がパンになるように命じたらどうだ」—>「神の子なら、飛び降りたらどうだ」—>「もしひれ伏して拝むなら、これをみんな与えよう」
- ルカ4章1節ー13節 「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」—>「もしひれ伏して拝むなら、みんなあなたのものになる」—>「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」
これらの2つの聖句を読んで、3つの率直な疑問が湧いてきます。
- 1つの疑問は「マタイの記録とルカの記録になぜ矛盾があるのか」という疑問です。
- 2つめの疑問は、「どちらの順序が正しいのか」という疑問です。
- 3つめの疑問は、「どちらの記述が正しいのか」です。翻訳の問題かもしれませんので、わたし自身、この個所が書かれている原語(ギリシャ語)から訳してみました。原語から見ても、上記の翻訳は正確に訳されています。
マタイ4章とルカ4章はなぜ違うのか
聖書学の専門的なことは、ここでは省きます。しかし、少なくとも次の2つの事が考えられます。
- 古代1世紀の歴史を書いた人々は、正確な年代順や物事の順序について、現代科学や歴史学ほど重要だと思っていませんでした。聖書の著者も例外ではありません。ですから、このような文化背景を考える時、これは矛盾とは言えません。
- 「、、、、、」の中のことばは要約です。現代でも同じ事が言えるでしょう。新聞記者は、政府関係の人物や経済界の人物が言ったことを、一字一句間違いなく記録する事が求められます。それがいつもいつも可能だとは限らないのも事実でしょう。新聞報道にも編集者の解釈が入ります。正確さが求められる新聞でも、このような状態です。古代文書の聖書の中に違いがあったとしても、それを矛盾や間違いではありません。
いかがでしたか。今回は、現代人から見れば明らかに矛盾と思われる新約聖書の個所、マタイ4章とルカ4章を取り上げました。どのように考えますか。ご意見などお寄せいただければ幸いです。
聖書と科学
- 科学の限界と聖書的視点
- 自然現象と科学技術の関係
- 進化論と創造論は共存するか
- 聖書の世界観と科学の世界観
- 進化論は否定できるのか
- 外部リンク 聖書の間違い 佐倉哲氏の記事をぜひお読みください。
旧約聖書の矛盾ー学者が主張する資料説

旧約聖書を学術的に学ぼうとする人は、資料説を学びます。資料説は、簡単に言えば、「旧約聖書は違った年代に書かれた資料に基づき、最終的に編集して書かれた」と説いています。創世紀1章と2章も例外にもれず、その資料説の枠組みに入っています。1章1節から2章3節(簡略のため#1と呼びます)まではP資料から引用されたものと考えられ、2章4節ー25節(#2と呼びます)まではJ資料から引用されたものと考えられています。#1も#2も神の創造について書かれていますが、主に次の3つの相違点があると指摘されます。
- #1は非常に格式を重んじて順序良く書かれています。さらに科学的な点についても説明しているようです。一方、#2は子供に話す寓話にように書かれています。
- 創造の順番が#1と#2とでは違うと主張されます。(#1植物ー>動物ー>人間、#2男ー>植物ー>動物ー>女)
- #1では神に対して ’elohim(直訳すると神) と呼んでいますが、#2では yahweh ‘elohim (yahwehは神がイスラエルに啓示した契約の名前)と違った名前で呼んでいます。
【1】資料説は人間が作る学説
第一に、創世紀が書かれた頃、違った資料があり、著者がそれを使った可能性は否定できません。旧約聖書は、これらの資料を編纂して書かれたという説も否定はできません。
しかし、資料説は人間の学説にすぎないことも認識すべきでしょう。J資料とP資料の違いを見つけるのは、ある一部の聖書学者が主張しているほど明確ではありません。たとえば。P資料と定義されるところに、yahwehの名前が出てきたり、その逆の場合もあります。
聖書の中の矛盾を考えるよりは、むしろ著者が初期の読者に何を伝えようとしていたのかを考察するほうが、100倍重要なのです。一部の現代聖書学者がしようとしていることは、聖書を精密機械のように分解して、現代人の観点から組み立てようとしているのと同じです。これは聖書の理解の妨げになるばかりか、多くの人々に誤解を招く元です。むしろ、今ある私たちに与えられた聖書が、どのように私たちの暮らしに適用できるかを考えるべきなのです。
【2】創世記が書かれた歴史的文化的な背景
第二に、創世紀が書かれた文化的背景について考えてみましょう。創世紀が書かれた頃と同時期に、偶像礼拝をしていた異教徒たちが書いたと思われる創造の記録の文献が、中東地域で発見されています。
しかし、それらの創造の記録には、多くの神々の存在が記されています。人は神々に供え物をあげて、神々はその供え物によって生き長らえていたのです。神々は、人間と同じように自然の力に頼り、また神々の間では人間と同じように争い事が絶えませんでした。
このような文化背景の中で、古代中東の人々は神々を偶像礼拝していました。このような文化の中では、現代人が考えるような矛盾については無関心でした。これに反して、創世紀は、唯一の神が天地万物を創造し、すべてを支配していると啓示したのです。創世記1章ー2章には、神の絶対的な権威と創造された天地万物の目的が、記されているのです。これが創世紀1章-2章の意味です。
【3】創世記の文学的な観点
第三に、文学的な面から検証してみましょう。創世紀の中で、過去の出来事を総括する時に使われていることばがあります。英語のアルファベットで書きますとtoledhothということばです。これは経緯、系図、歴史などと訳されています。2章4節でも次のように訳されて使われています。「これは天と地が創造されたときの経緯である」。1章と2章の文脈から、経緯とは「1章のまとめ」と読みとれます。
同時に、創世紀全体を読みますと、これは著者の文学的な技法であることが理解できます。創世紀が書かれているへブル文学では、このような技法が多くみられます。参考までにtoledhothが使われている聖句は、2章4節(天地創造)、5章1節(アダムの歴史)、6章9節(ノアの歴史)、10章1節(ノアの子の歴史)、11章10節(セムの歴史)、11章27節(テラの歴史)、25章12節(イシュマエルの歴史)、25章19節(イサクの歴史)、36章1節(エサウの歴史)、37章2節(ヤコブの歴史)です。いずれの場合も、各世代の歴史をハイライト的に要約しています。
創世紀2章で、創世記の著者は1章の創造の歴史で記されていなかったことが、補足的に書かれているのです。つまり、男と女からなる人間の創造に、ハイライトを当てて書かれているのです。
【4】創世記の科学的観点
第四に、科学的な観点から見てみましょう。現代人が、創造の出来事の順序に矛盾があると思われるのも当然かもしれません。たとえば、太陽が出来る前に、なぜ植物があったのかという疑問が出てきます。誰もが納得できる答えは、管理人にはありません。
自分の主観的な見方から、クリスチャンにせよ、聖書から間違いを見つけようとしている人にせよ、自分自身の推測をあたかも事実かのように語ることは愚かな事です。ある人たちは、聖書に一字一句間違いはないと主張します。「聖書は科学を超えている書である。科学がやっと聖書に追いついた。科学は聖書に合わせなけらばならない」と言います。その逆に、別のある人たちは、科学を聖書の枠組みの中にはめようとします。聖書の記述は間違いだらけであると主張するのです。しかし、このような論争は、神の御言葉をないがしろにしています。人の徳を高めません。もし聖書と科学の間に矛盾があるなら、それは私たちの聖書解釈に間違いであるか、私たちの自然科学の解釈に間違いがあるか、どちらかなのです。