すべてのクリスチャンは聖霊を受ける、と約束されています。しかし、一部の教派では、信仰者が水のバプテスマを受けた後、神様によって選ばれた人たちだけが、新たな聖霊の力を受け、その印として異言を話すようになると教えられています。これは「聖霊のバプテスマ」と呼ばれています。管理人は、違った意見を持っています。すべての信仰者が聖霊のバプテスマを受けると信じています。
すべての信仰者に約束されている聖霊
もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる。『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、わたしも彼らを顧みなかった』と、主は言われる。『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に、「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで彼らはすべて、わたしを知るようになり、わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」へブル8章7-12節 聖書協会
新しい契約においては、すべての信仰者に聖霊が降り注がれると約束されています。この約束の預言は、旧約聖書エレミヤ31章31-34節で語られ、新約聖書へブル8章7-12節にこの預言が成就したと書かれています。
またヨエル2章28-29節では、老若男女問わずすべて信じる者に神様の霊が宿ると預言されています。さらにこの預言は、使徒たちが五旬節のときにエルサレムで、他のユダヤ人たちの前で公然と異言を話し始めたときに成就しました(使徒行伝2章)。
旧い契約下では、特別に選ばれた人だけに聖霊が宿りましたが、新しい契約では、すべてのクリスチャンに万人祭司の契約が与えられています。特別な人にだけに聖霊が働いていると説いている教えは、聖書の教えではないと私は信じています。
使徒行伝の解釈
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。使徒2章1‐13節 聖書協会
使徒たちが話した異言は、人間が話す言語です。一部の教派が行っている意味不明な雑音ではありません。
使徒行伝のアウトラインは、主イエス様の言葉に書かれています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」使徒たちは、この言葉通りにエルサレムで宣教を始め(1—7章)、サマリヤ(8章)で宣教をしました。
神様の御言葉は、ユダヤ、サマリアに留まらず、地の果てまで広がっていきました。異邦人宣教の先駆けになったのが使徒ペテロです。ペテロと主の働き人たちは、異邦人であるコルネリオ宅を訪問して福音を伝えたのです。そのときコルネリオ一家の人たちも聖霊を受けて異言を話し始めたと書かれています(10章44-48節)。この聖句の文脈では、異言を話すことが聖霊が降った証拠として書かれています。
1コリント12章—14章の解釈
異言を主張する人にとって、1コリント12-14章は非常に重要な箇所です。パウロは、14章で異言と預言を比較してます。ここで、預言は異言よりも優れた賜物であると明言しています。なぜなら、預言は教会全体を励ますことができるからです。
ここでパウロは異言を話すことを禁止してはいませんが、むしろ教会全体のために黙っていなさいと命令しています。教会に初めて来た人が、異言を聞いたら「気が狂っている」と思うでしょう。だから、他の人に配慮して黙っていなさと言っているのです。教会は秩序ある場であり、礼拝が行われる場です。自分勝手に好きな事を出来る場ではありません。
使徒パウロは、異言よりも神様の御言葉を話す預言の賜物を求めなさい、と勧めています(1コリント14章31節)。聴いている人たちがわからない異言で話すよりは、理性によって神様の御言葉を語る預言の賜物の方が優れているからです(1コリント14章19節)。
人それぞれ違った賜物を受けています(1コリント12章27-31節)。異言は、賜物の一つに過ぎません。クリスチャン全員が異言を話すことは、ありませんでした。また異言が聖霊のバプテスマのしるしではありません。聖霊は、クリスチャンそれぞれに違った方法で働き、また違った賜物を与えているのです。
結論 聖霊のバプテスマは、すべてのクリスチャンに約束されている
バプテスマのヨハネは、「主イエス・キリストが聖霊と火でバプテスマをお授けになる」と証言しました。主イエス様のバプテスマは、すべての信仰者に与えられると聖書を教えています。クリスチャンの中のある特定の人たちだけが、受ける約束ではありません。すべてのクリスチャンに約束されているのです。
2世紀にも預言に強調していたクリスチャンから派生した異端グループが存在しました。また18世紀から19世紀のアメリカでは、奇跡的体験を強調したShakers というクリスチャングループがいました。いつの世でも、このようなグループは存在します。
ある特定の賜物を強調すること自体、神の御心ではありません。賜物は、教会を立ち上げるためにそれぞれのクリスチャンに与えられているのです。教会の中にエリートはいません。特別扱いされる人もいません。信者の上に立つ人もいません。クリスチャンの主、先生はイエス・キリストだけです。聖霊なる神は、すべてのクリスチャンに宿っているのです。恵み豊かな主に感謝します。