日本社会は砂漠状態です。人間関係が希薄になり、一人孤独に生きている人たちが多いことに気づかされます。人々の心は渇き、霊的に枯渇しているように思えます。詐欺によってどれほど多くの人たちが、騙されたているでしょうか。働けど働けど、生活は苦しくなるばかりです。そんな私たちに、主イエス様は心の安らぎを与える命の水を与えてくださいます。
主イエス様がサマリヤの女性に話しかける
サマリヤ人は、ユダヤ人と同じように創造主なる神様YHWHを信じていましたが、民族の観点からいえば純粋なユダヤ人ではありませんでした。なぜならサマリヤ人は、ユダヤ人と異邦人のハーフだからです。民族の純粋さを保とうとするユダヤ人たちは、サマリヤ人を避けていたのです。
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。…すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」ヨハネ4章7-15節 聖書協会
ユダヤ人である男性が、しかもサマリヤ人の女性に自分から話しかけるなどもっての他です。それを敢えて主イエス・キリストはしたのです。サマリアの女性が驚くのも無理もありません。この時、主イエス・キリストは、人生の大切な原則をこの女性に教えます。
関連記事

主イエス様が与える命の水
どんなに純粋なミネラルウォーターを飲んでも、時間がたてばまた喉が渇きます。そんな人間の常識を覆すことを主イエスは言います。「決して渇かない水がある」と。そんな水があれば、世界各国に配って人々を干ばつの被害から守れます。サマリアの女性も、物質であるH2Oの水を考えていました。
しかし、主イエス・キリストは、神様が与える霊的な水について語っていたのです。神様の祝福という恵みが、泉のように絶え間なく、人の心に注がれます。主イエス様が与える水は、そのような霊的な泉です。しかし、霊的な水と言ってもピンと来ないかもしれません。イエス・キリストの霊的な命の水は、私たちに何をするのでしょうか。人間の霊的なニーズを満たすのです。
主キリストの命の水は、人生の空虚感を満たす
数千年前、旧約聖書が書かれた時代の人たちも、人生に空虚感を感じていました。旧約聖書に伝道者の書、コヘレトという書があります。もし読んだことがないのであれば、ぜひ一度読んでみてください。
科学技術が発達して非常に便利になった現代社会でも、人は人生の空虚感を感じています。生きていることに何か空しさを感じています。人間の理知的な知恵によって、人生のすべての問題が解決できると、19世紀ヨーロッパの哲学者たちは考えていましたが、罪人である人間の現実は違います。いつの世も人間社会は、犯罪、戦争、社会の不正で満ち溢れています。問題解決どころか増える一方です。こんな世の中で、人は空虚感を覚えるのです。
ところが、天からいらした主イエス様は、私たち人間に霊的な命の水を与えてくださっています。私たちの空虚感を満たしてくれる命の水です。主イエス様はその聖なる教えによって、私たちの心を満たしてくださるのです。そして、人生の生きがいと目的をも与えてくださるのです。
主キリストの命の水は、人生の生きがいと目的を与える
「何のために生きているの?」と聞かれたら何と答えるでしょうか。いきなりこんな事を聞かれたら、答えに苦慮するかもしれません。このような哲学的な質問を、普段から考える人は少ないでしょう。
「人生の目的」という本を書いた五木寛之氏は、その本の中で人生に目的はないと断言しています。人生の目的は見つからないかもしれないとも書いています。天の神様から離れて、人生の目的が見つからないのは当然なのです。人生の目的は、神様から与えられるものだからです。主イエス様は、その人生の目的と生きがいを、私たち人間に与えてくださるのです。私たちの心に光を与え、私たちの心の目を開いてくださいます。
主イエス様が与える命の水は、霊的な力を日々私たちに与えてくださるのです。決して渇くことがない命の水は、私たちの心を満たし、人生の方向性を示してくださいます。
主キリストの命の水は、人生の方向性を与える
一昔前に、美空ひばりさんが歌った「川の流れのように」という歌がありました。その歌詞の中のサビの部分に、「川の流れのように、おだやかにこの身をまかせていたい」があります。この歌は、自然と一体になるという日本人の情緒に訴えているがゆえに、人々の心をつかんだのではないでしょうか。しかし、神様が創造した自然を、人間は破壊して自らの首を絞めているのです。この歌で歌われている事と真逆をやっているのが、人間の性の現実です。
もう一つ気づくべき点があります。それは、自然は人間がどのように生きるべきかを教えてはくれません。主イエス様は、霊的な命の水を与えて、人生の方向性を与えてくださるのです。川の流れにまかせていたら、行く着くところはどこだか分からないような深い海の底です。主イエス様は、人生の道を与え、人生をどのように生きていくべきかの真理を与え、また命の意味を与えてくださるのです。
霊的な命の水を素直に受け入れよう
しかし、私たちはその霊的な水を「結構です。私は必要としていません」と断ることもできます。ここで私たちは、心の目と耳を開く必要があります。主イエス様の言葉に耳を傾け、理解できるように祈ってみましょう。神様は霊です。目に見えない形で、私たち一人一人に語りかけています。耳には聞こえない声で、主イエス様は、私たちに話しかけているのです。
すべての人間は心の目と耳をもっています。ただ長い間、使っていないのでその存在さえも知りません。霊的なDNAが、私たちの心に宿っているのです。そのDNAを目覚めさせるために、たとえ神様を信じていなくても、祈ってみましょう。「神様、私の心の目と耳を開いてください。私に語りかけてください」と祈るのです。神様は、あなたの祈りを聞き、必ず応えて下さるでしょう。永遠の命に至る水を与えて下さる主イエス様は、日々、私たちを招いて下さっています。
読者の皆様に、この霊の水を与えて下さますように、心からお祈り申し上げます。