神の救いの計画には、不思議な出来事が盛りだくさんです。神は、私たち人間の心を動かすために、そのような不思議なわざをなさっているのではないでしょうか。エリザベトとザカリアという高齢の夫婦に子供が生まれました。この老夫婦のミッションは何だったのでしょうか。彼らの信仰から何を学べるのでしょうか。主イエス様の母であったマリアほどは注目は浴びませんが、この老夫婦には大切なミッションが与えられていました。
ルカの福音書の本分の始まり

ルカの本文の始まりは、創世記の出来事でもなく、初めにことばありき、というヨハネ福音書のようではない。出来事について、初めからの目撃者との書への背景が、「ルカの福音書1章1節ー4節に聴く」であります。それは、この世界で起こっていること、人の営みを初めとして書き始めます。歴史的事柄として書きます。人が地に足をつけ、生活を営み、色々な出来事を体験している世界を舞台にして書き始めます。その舞台はとりもなおさず、今を生きる私たちの今日につながります。
何年か前、二度エルサレムに旅したことがあります。神殿の跡があり、オリーブ山があり、ガリラヤ湖が舟を浮かべ、ヘルモン山がはるか北のほうにそびえ立っています。当時と同様、変わらず冠雪の頂きが目に映ります。通りには、黒い帽子をかぶり、顔の両側から長い髭をたらし、黒いガウンをはおり歩くレビがいます。旧約時代から安息日を死守し続ける人々が現在も街の通りを歩いています。このような世界に起こった出来事からルカは書き始めるのです。
その始まりは、ヘロデ王の名からです。書きたくない名前の一つではなかったのではないでしょうか。真の王を知るルカが「王ヘロデ」と筆で書き下ろすなど拒否したくなる名です。時代の支配者であるなら記録する内容を吟味し、好ましくないことは排除するでしょう。しかし、ここでは歴史の始まりに「王ヘロデ」と書くのです。御霊のお導きに従うルカです。
この支配者を起点として、次ぎに出てくるのは神殿奉仕する祭司ザカリヤです。これも記録内容としては最優先事項ではなかった筈です。なぜなら、ルカが記録したときには神殿中心の世界は変わっていたからです。終わったと言ってよいのです。あの山、この山で礼拝する時代は去り、霊と真理で礼拝するときが来たからです。しかし、出来事の始まりは「王ヘロデ」の時、「神殿祭司」ザカリヤを通してあったのです。人々が生きている現実はそのまま書きとめられる必要があります。だから記録されます。

高齢の夫婦に
ザカリヤとその妻エリサベツの名をあげます。女性の名が特に書き記されることは、男性中心社会の当時として斬新であったと思います。このことからも、何か新しい風が吹き始める予兆が感じられたのです。彼ら夫婦の生活ぶりも書かれています。ふたりとも神の御前に正しく、主の戒めをすべて落度なく、踏み行っていた、とあります。すんなりと書きますが、「ふたりとも」とあります。「ともにふたりで」と言い換えてもよいでしょう。書けるようで、なかなかすんなり書けないのが現実ではないでしょうか。互いにエゴがあり、自分があり、我を通したい罪があります。なかなか折り合いがつかないまま、我慢しながら今日を生きる現実があるかもしれません。特に、この国で、異邦の最果てで、「ともにふたりで」信仰に立つことを書き切ることは難しい、厳しくも途方にくれるような状況があります。今も信仰の闘いをしている多くの兄弟姉妹を思います。主の励ましとあわれみを願うばかりです。
ここに記録された夫婦は「ふたりとも神の御前に正しく」とあります。互いの折り合いの話しではなく、神の御前でこそ「ともにふたりで」となるのです。理想的ふたりだから「ふたりとも」ではありません。そうではなくて、それぞれ弱さがあったとしても「神の御前で」のともにふたりです。神様のあわれみにより私たちは「ともにふたり」でと初めて書くことがでるのではないでしょうか。ですから、ふたりが特別立派だから「ふたりとも神の御前に正しく、主の戒めをすべて落度なく、踏み行っていた」と読み込んではならないのではないでしょうか。神の御前でこそ、神様のあわれみでこそ、そのような文章を記録出来たのです。
人生の危機で
このふたりに人生の危機がありました。その危機を抱えながら神殿に仕え、互いに生きています。エリサベツは不妊の女であったと書きます。医者ルカが記す、エリサベツの状況です。彼らには子がいなかった、とも書きます。不妊であれば当然子供はいないのです。それなのに、なぜあらためて、彼らには子供がいなかったと書くのでしょうか。むしろ、このようなことは伏せておくほうがよいでしょう。世継ぎがいないことは家の一大事です。落胆を表し、社会的立場の弱さゆえに、彼らには子がいなかったと書く必要があったかもしれません。さらに追い討ちをかけて、ふたりとももう年をとっていた、と書きます。決定的事実を書くのです。それでも、ザカリヤは落度なく、いやザカリヤだけでなくエリサベツとふたりで落度なく主に従う生活をしていたのです。彼らに子どもがいなかった、そのことを、その状況を悔やむ日々ではなく、むしろ、神の御前で仕えることに専念する歩みをします。それでも、仕えながら不妊のことを神様に問いつつの生活であったと思います。神様なら必ずお応えくださると信頼しての歩みです。
一時の危機でもこころはゆさぶられます。疑い迷いが生まれます。それが、長年抱える危機でありながら、それも望みが断たれたような、好転することが期待出来ない危機です。それでもふたりの信仰は、揺さぶられることなく、枯れることなく、ひたすら主に仕える生活となっていたのです。彼らの姿はどこから生まれるでしょうか。様々な危機が日常生活の中で私たちを襲います。教会を襲います。突然の危機もあれば何年、何十年も向き合う危機もあります。
ある教会の方から聞いたことです。十四年ぶりに礼拝に帰って来た兄弟がいたとのことです。もう諦め、忘れかけていた方が帰って来たのです、と喜んで語ってくださいました。十四年の間、信仰が試されましたとも言っておられました。愛が欠けていた自分を悔い改めたとも言われていました。身に覚えがあることです。他の牧会者から聞く、身に覚えがあり、身に痛く滲みる体験談です。いろいろ起こります。しかし、それでも、いや、それゆえにと言っても良いです。兄弟姉妹たちは神様を礼拝し続けていました。だから、兄弟は十四年ぶりに帰ることができたのです。ザカリヤとエリサベツは危機を抱えながら揺さぶられることなく歩んでいました。彼らも神の御前で生かされていたから、礼拝し続けていたから、揺さぶられても、道を外すことはなかったのです。

ザカリヤに起こったこと
さて、とルカは目を転じて、ザカリヤが神の御前に祭司の務めをし、神殿に入り香をたく様子を記録します。香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた、とあります。神殿内で香をもって祈るザカリヤと人々は、神殿の壁を突き抜け一体となり神に祈りを捧げます。ここには神との対話が一人の祭司だけの業ではなく、人々が関わる、共同体の業であることを示しています。神殿内であろうが、外であろうが、置かれた場で神との対話をするのです。ここでは個人でのものでなく、共同体の業です。それぞれが祈るとき、聴いていてくださる神の臨在が共有された体験となります。神の子等、神の家族として体験します。その現場に御使いが現れます。神と対話する者に、それを支えあう祈りの共同体に神は応答してくださいました。神は確かにおられ、聴いてくださっていたのです。
ザカリヤは御使いを見て不安を覚えます。恐怖に襲われたとあります。神殿での出来事です。自身の弱さ、手に負えない現実、滅び行く現実を見ます。そして、その中で滅びる者のいのちを覆す聖なる神の使いに触れます。現われた御使いは名をガブリエルとしています。闘うものという意味です。御心をもって闘う御使いです。神の時代を進めるため罪と闘う御使いです。神の御業のなかに入り込んだザカリヤは不安と恐怖に襲われたのです。聖なる御方の世界に触れた、聖なる感覚が、不安と恐怖をもたらしたのではないでしょうか。
こわがらないで
このザカリヤに御使いは言います。「こわがることは無い。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネと呼びなさい。」うろたえる者に神はみことばをくださいました。みことばを聴くとき、わたしたちは救いを見ます。ゴルゴタで起こったことを見ます。丘に立つ十字架を見ます。みことばを聴き見たことからなお聴きます。神が語る約束です。背を向けることのない、変わることの無い約束を聴きます。襲った不安と恐怖は飛び散ります。みことばを聴くからです。
不安や恐怖の消滅だけではありません。「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。」神の約束がさらに、みことばを聴くザカリヤにとり喜び、楽しみとなります。ザカリヤばかりかエリサベツにとっても喜びと楽しみとなります。さらには、あの神殿の外でこころ合わせ、共に祈りを一つにしていた人々の喜びと楽しみとなります。そして、言わなければなりません。「多くの人もその誕生を喜びます。」この「多くの人」のなかにあなたやわたしをいれてもらえます。
不可能を抱える夫婦、それでも神に忠実なふたりを通し働く神様からの御声を聴きます。わたしたちはルカのペンから御声を聴いています。神の御業に触れています。不安と恐怖に襲われる中でみことばを聴くとき、私たちは世の闇を切り裂き、侵入する神の約束を喜び、楽しむことが許されています。今日、ここで!
立ち返るために
十五節の直前にはバプテスマ・ヨハネの誕生予告が喜びに満ちるものであったと記されます。そして、喜びのうちに迎えられるヨハネを彼と呼びながら、誕生前に様々な紹介がされます。主の御前にすぐれた者となるからです、と喜びの一端を表しています。御前にすぐれた者となるとは、どのような者になることでしょうか。偉大と言う意味をも含む、すぐれた、とはどのようなことでしょうか。御前にすぐれた者です。世界ですぐれ者とは言っておられないことに注目です。母の胎内にあるときから聖霊に満たされた、とありますから、みこころに満ちる者です。この事実が御前ですぐれた者の一つの根拠ではないでしょうか。さらに、誕生前の彼の使命が語られます。「イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。」不思議な使命です。イスラエルの子等は神に愛され、特別に扱われてきた歴史があります。それにも関わらず、どうでしょうか、彼は、イスラエルの神である主に、民を立ち返らせる使命を帯びていると言います。
神に返る
エジプトからの解放以来、シナイ山でのみことばを受け、神殿祭儀の取り決めに従い、幾多の預言者のみことばを聞き、ありとあらゆる体験を神との関わりで持ってきた民が、神である主に立ち返るはなしです。神に背を向ける民、その罪が神に愛されてきた者たちのなかで起こります。御名を唱え、讃え、神と共に歩んで来た民が実は神から離れていたのです。口先では神を語り、こころでは離反し、そして、立ち返りへの使者無しでは神に返ることが出来ない状況になり果てます。
イスラエルの民だけの問題ではありません。いつの時代も罪の嵐は吹き荒れます。みことばを聴き、礼拝生活しつつ神を讃え、祈り、捧げるただ中にありながら、この信仰者を神から引き離す、キリストのからだから引き剥がそうとする罪の嵐は吹いています。神の真実に、愛に、そして神ご自身に背を向け、不誠実な者に堕落する状況は絶えずあります。私たちはこの実態を日々痛く体験しています。神の民と呼ばれるイスラエルだけがそうではないのです。地の果ての民、この地で信仰に生かされる者たちに険しい闘いがあります。神は、イスラエルの民へ、そして私たちに、ヨハネと言う、御前にすぐれた者となる使者、預言者を遣わします。それにしても、すでに成人している者を遣わすのではなく、母の胎内より備えられる意味は何だろうかと考えさせられます。人が地上で歩む身となり、その人に徹底して寄り添い、愛してくださる主の意志を担う使者の姿がここに現れているかもしれません。
誰にでも使命がある
彼の使命は、主イエスの前ぶれとして民を神に立ちかえさせるものです。第一にそれが、父たちの心を子どもたちに向けさせることです。これも不思議です。父たちを子どもに向けさせることが何故神に立ち返ることなのかすんなりは分かりません。でもそうさせることが大事です。それは、父母を敬いなさいと教えられた神の意志がなるよう歩むことが大事だからです。敬われる父として果たすべき業をすることが大事な一歩であると言うことかも知れません。父なる神の教えを第一歩とするとき、親子の間に神の真実が現われ、親子で神体験をし、神に向き始めるからでしょう。神に向き、神を知らなければ立ち返りようがありません。
第二に、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、とあります。これは分かり易いと思います。神に逆らう者を正しい心に立ち戻らせるのです。分かり易いけれども、最も難しいことです。先の親子の心の在り様は身近なことであり、欠けたことが具体的に見え、問いやすいのです。しかし、義人の心を取り戻すことは至難の業です。人には不可能なことです。誰かの心をかえることが出来たと言う人がいたら会ってみたいと思います。誰かの影響で職業選択や、辛さの気分がかえられたと言う人はいるでしょう。しかし、ここは、御前で義人の心にかえられることです。人には出来ないから、エリヤの霊と力のことわりがあり、誕生前から御霊に満ちる存在であったと言葉が添えられているのです。主なる神の霊により、主の御手として用いられるヨハネが父たちの心を子に、逆らう者を義人の心に戻らせます。その業が、民を主のために用意することになります。

問い、見える
神の御計画を聞くザカリヤは問います。不安の出来事から喜びへと展開し、そして、与えられる子がすぐれた者となると聞き、その中身をいろいろ聴くことができました。やがて父となるザカリヤは有頂天と言うわけではありません。良く聴いたうえで、なお問います。約束の使いにさらに問うのです。それは主なる神に問うことです。これは大事な態度と言えます。とことん神に問い、みことばをいただくことはわたしたちの存在の根にかかわることです。聖書にとことん取り組む態度と同じです。みことばがわたしたちの存在を支え生かす唯一の根拠だからです。
ザカリヤは後に引かず聞きます。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」聞き方も必至です。ザカリヤも妻も後が無いのです。切羽詰っています。率直です。見習うべき態度です。それに御使いは応答します。問うかぎり答えが聞こえます。信仰者の祈りのすべては無駄になることは無いと聞いたことがあります。祈り続け、祈りの生涯をおくった信仰者の確信的言葉です。祈りの人、主イエス・キリストの生涯を見る私たちには納得出来ることです。
御使いは、名を告げ、使命を告げ、喜びのおとずれを伝えるよう遣わされたことを伝えます。主なる神が背後におられることを伝えます。喜びのおとずれを伝えると御使いは語ります。やがて誕生する子は喜びのおとずれとなります。喜びのおとずれは福音とも訳されます。福音は良き訪れ、良き知らせという意味です。当時は、王室に王子が誕生したとか、姫が誕生した知らせがそうです。また、戦場で勝利した知らせも福音という言葉が使われました。福音が聖書に登場するときには人を変え、人生を変え、社会を変え、世界を変えます。御使いの良い知らせがヨハネの福音となり、そのヨハネが来るべき福音中の福音到来の先駆者となります。世界が神のものとして回復してゆく、変わり始まる初めが展開しようとしています。
約束に生きる
そのなかでショッキングな答えが聞こえます。「見なさい。これからのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。」見なさい、の言葉が用いられるとき、人類がいまだ体験していない神の御業への注意喚起、呼びかけを示唆する場合があります。見るべきこと、めざましい神の御業を見なさいです。見なさいの呼びかけは、自分の思いや考えで見るのではなく、神を信じて見ることです。神のご意志で見るのです。神がなさろうとしている業に思いを委ね見るのです。そうすれば、神の偉大な御業の真実を見ることができます。
見なさい、の後これからのことが起こるまでは、とあります。神の業が起きるまでです。それを見なさいと言うのです。見るあなたは、もの言えない者となるのです。しるしを見せてくださいの答えです。喜びの知らせ、すぐれた子の誕生の約束です。期待一杯で周囲に話したい、なによりも喜びを妻と語りながら、約束が現実となる日を待ちたいでしょう。それが一切出来ないと言うのです。理由は語られたことばを信じなかったからです。みことばを信じませんでした。ザカリヤは証拠を見せろと詰め寄ったのです。見るのではなくみことばを信じなさいと言うことです。見なさい、神の御業を、と御使いがザカリヤに言ったのは不信仰を憐れんだ言葉であったかもしれません。
沈黙のまま、ときが来ると御業が成る約束を胸に待望します。みことばのとおり不自由な生活に入ります。喜びと楽しみの中に訪れた予想外の日々です。神は祝福と同時に試練を与えました。人の弱さ、罪深さ、不信仰のゆえにもたらされる試練です。この試練ゆえに、夫妻はさらに神に信頼し、みことばを聴く耳を研ぎ澄まされてゆきます。聴く耳のたしかさは、やがてこの家族を襲う苦難を乗り越えるちからとなります。
神殿の外ではザカリヤを待つ人たちがおります。なかなか出て来ないので不思議に思っていました。神に祈ってはいましたが、予想通りにことが運んでいないから怪訝に思ったのです。無言のザカリヤを見て、人々は幻を見たことをわかったとあります。言葉にならない経験をしたことを察知したのです。人々が直ぐ分かったのは驚きです。祈りを共にするということは、兄弟姉妹に起こっていることをこのように分かりあうことかも知れません。いずれにしろ不思議なことです。とうのザカリヤは合図を続けるだけで、口がきけないままでした。神殿で起こった喜びの訪れを受けた者の沈黙に、私たちはさらにこころを開き、主の御計画に注目し続けます。沈黙の中、確実に進む神の御計画にこころの耳を傾けます。
