コンテンツへスキップ 投稿日:2021年2月28日/更新日:2025年3月5日

行き過ぎた聖書至上主義の問題点

説教壇から説教する牧師

行き過ぎた聖書至上主義の問題点を取り上げ、牧師の責任を考えてみましょう。多くの方々が、聖書至上主義の被害にあっています。

聖書は神の御ことばです。神は、私たちが御心を理解できるように、人間の言語で書かれている聖書を与えてくれています。「聖書は誤りない神のことばである」という信仰から、聖書信仰という概念が生まれました。聖書信仰と言う概念が独り歩きして、極端な聖書至上主義がキリスト教界にはあるようです。結果的に、クリスチャンの間に混乱を招いてます。

聖書至上主義の問題点

聖書は、神の御心を理解するための道具とも言えます。道具というと、不謹慎と思われる方はいるかもしれませんが、手段といってもいいでしょう。聖書を悪用する人もいます。

その最たる例が悪魔です。悪魔であるサタンは、イエス・キリストを誘惑したとき、聖書を引用しました。

次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。マタ4章5節ー7節 聖書協会

悪魔は詩篇91篇11節―12節を引用して、キリストを誘惑しました。このように、神の御心に反して聖書は悪用されてしまうことがあります。聖書は、神の御言葉ですが、神ご自身ではありません。聖書至上主義の問題は、聖書を神ご自身のように扱うことにあるのです。キリスト者は、聖書を神の御心通りに解釈し、正しく適用する必要があります。

牧師・説教者の責任

罪人である牧師が、他の罪人に神の道を教えます。実際、これくらい危ういことはありません。しかし、牧師がその危うさを認識しなかったら、どんな教会になるのでしょうか。「牧師は神に召され啓示を受けているのだから、間違うことはない」というのであれば、なぜプロテスタント教派の間にこれほど分派分裂はあるのでしょうか。他方、ローマ・カトリック教会は「われこそが正しい唯一の教会である」と主張しているのです。

牧師が、聖書をどのように解釈してどのよう使うかは、非常におおきな問題です。教会メンバーの霊的な命が、牧師の一言によって左右されているからです。牧師が聖書を引用するとき、教会の人々を主イエスの名によってしばりつけている事例があります。

意図的に聖書を悪用する牧師先生はいないですが、誤った解釈をして真理の言葉を歪曲して伝えている可能性は十二分にあります。この記事を書いている管理人も含めてです。だからこそ、牧師と呼ばれる人は、神の御前でも会衆の前でもへりくだる必要があります。

牧師が聖書から説教するとき、牧師には明らかな責任があります。牧師は、聖書に啓示されている真理の言葉を、正しく解き明かす責任があります。実際に、教会のリーダーである牧師には、一般信者よりも重い責任が課せられています。裁きの日には、より厳しい裁きの座に立たなければなりません。そのハードルは、普通の信者の方々より高いのです。なぜなら、リーダーは神の恵みの導き手にもなれますが、躓きの原因にもなれるからです。

聞く人たちである教会の責任 聞いた言葉を吟味する

説教壇に立っている人が聖書を引用していれば、正しい事を言っていると鵜呑みにしてしまうことはないでしょうか。これは大きな落とし穴です。

牧師が言ったことを何の疑問もなく素直に受け入れるクリスチャンは、カルト的教会では褒められるでしょう。しかし、牧師の言葉であっても吟味されるべきではないでしょうか。どんなに偉い先生であっても、人間に過ぎません。間違いは犯します。だから、個々のクリスチャンは、神に対して正直に自分と向き合い、聖書を学ぶ必要があるのです。

裁きの日に、「この大先生が言っていましたから信じていました」という言い訳は、主イエス・キリストの御前では通用しないでしょう。主よ、主よと呼ぶ者がすべて救われるわけではないからです。一人一人が、神の御言葉を吟味し自分自身を吟味して、神と向き合う必要があります。耳の痛い言葉でも聞く必要があります。気分を良くするだけの礼拝メッセージだけ聞いているのであれば、要注意です。2テモテ4章2-4節

上記の聖句では、信者たちが、真理から離れてしまう過程が説明されています。聖書を正しく理解する責任は、牧師だけにあるのではありません。個々のクリスチャンが、真理を理解することが求められているのです。

結論 

以上、聖書信仰の問題点と牧師の責任と教会の責任について、読者の皆様に提言しました。聖書は神の御言葉です。その御言葉を正しく理解するのは、クリスチャン一人一人の権利であり責任でもあります。今日も、主イエス・キリストの尊い愛によって満たされますように。当サイトが、読者の霊的な成長にお役にたてれば幸いです。

読者の皆様の上に、主イエス・キリストの尊い愛が注がれますように。