イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。ルカの福音書 第9章1~9節」 聖書協会
弟子たちの派遣
イエスを見、教えにあずかる弟子たちが呼ばれ派遣されます。イエスを経験した事が、これからの自分たち道となります。始まりが自分からでありません。教えをマスターしての開始でもありません。「イエスは十二人を呼び集めて、」とあり弟子はイエスにどこまでも従い倣う者です。聖書でキリスト者の名は数回記録され、弟子は200回を越えます。始まりはイエスです。
十二人の弟子性はキリスト者にも通用します。十二人は直接イエスにより遣わされます。十二使徒と呼ばれていることから彼ら独自の性質があります。イエスが彼らを直に呼び、同伴させ、イエスの生涯の証人となった固有性です。いずれにしろ、十二使徒も、キリスト者も働きの始まりはイエスです。
イエスは十二人に備えをします。「すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。」前半は、派遣の目的、人々の困難からの解放です。困難でこれは乗り越えられ、他は難しい、としがちです。イエスは、「すべて」と備えます。天地万物を創造し、導くイエスのみことばを受け、険しく厳しいミッションの器とされ業を始めます。
イエスは弟子たちに「力と権威」を授けます。力だけではなく、権威が伴う備えです。力は召された業を遂行するエネルギーでしょう。力は具体的には、イエスがお語りになったみことばです。みことばの力とイエスの霊です。派遣する霊が業を実現するエネルギーです。権威は彼らの業を支える土台です。悪霊を追い出し、病気を直す基です。悪霊の追い出しにはイエスの権威が拠り所となります。万全の備えでイエスは十二弟子を派遣します。
弟子の姿勢
備えはそれで十分です。ところが、イエスはさらに弟子たちに語ります。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。」旅の矢先、何も持って行かないようにとの指示です。下着も、二枚はいりませんと言います。着の身着のままということです。イエスに問う声はありません。みことばのまま旅立ちます。
イエスの指示を聞く弟子たち、私たちに何を語るでしょうか。先の「力と権威」により頼む者であれ、と弟子の姿勢を目覚めさせているのではないでしょうか。色々な状況に対応し物、金、道具を準備するのが常です。弟子たちにイエスの内で備えなさいと語ります。弟子のあるべき姿を示します。弟子たちが何を第一として歩むのか、その現れがここにあります。
宣教方法
その上で、行く先々で扱われる受け止め方を説きます。「どんな家に入っても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」出向く場所ではどのような家に入ってでも、とあります。どんな扱いかどうか考える間もなく進みます。
どのような相手かは気になります。どんな家、とあります。一人でも多くの人々に御国の到来を、との意志です。着のみ着たままの弟子たちは、受け手により旅が支えられ送り出されるようにとあります。御国を受け入れた家は、次の宣教への拠点です。初代教会では家の教会の様子が記録されています。家であったところが、神の家に変えられ、家がイエスの宣教を担う群れとなり拡大します。
迫害者であった頃、パウロは家々をまわり、キリスト者を迫害しました。家が宣教拠点となっていたことがうかがわれます。回心後パウロは家族を通し宣教しました。家ごと福音に触れ、伝わってゆく出来事は吟味されなければならない宣教方法です。特に、この国の家を考えるとき、変えられた神の家が持つビジョンは大きな可能性を持ちます。イエスの一つの宣教方法です。
また、家が拒絶する場合をあげます。御国宣教をし、拒絶されます。喜ばしい知らせでも、拒否されることがあります。御国を拒否する罪があります。それでも一生懸命です。私たちの野望を果たすための一生懸命ではありません。イエスの一生懸命に与った者の姿です。私たちのために一生懸命に歩まれ、十字架の丘に行かれたイエスのゆえに、忠実な僕に徹するだけです。
ルカの福音書の解説 戸村甚栄伝道者
弟子の振る舞い
弟子たちは拒絶されたからと言って、その家をさばくような振る舞いはありません。拒絶する者への裁きは弟子たちではありません。それは、審判者です。派遣者が審判者です。彼らがすることは、人々を悪霊から解放し、病を直すことです。それを拒否する者には足のちりを払い落とし、その家を去ることです。家に立ち寄り、御国到来を告げたことを現わす家のちりです。
扱いがどうでも御国到来の告知は変わりません。伝え方は変わるかもしれませんが、御国到来を告げるのは不変です。「十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至るところで福音を宣べ伝え、病気を直した。」国主ヘロデは城壁内で穏やかでありません。自分が殺めたバプテスマのヨハネのよみがえりを思い、人々の話から、エリヤや昔の預言者のよみがえりを聞きます。これらを聞き、ひどく当惑していた、とあります。
イエスに出会う
「ヘロデは言った。『ヨハネなら、私が首をはねたのだ。そうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。』ヘロデはイエスに会ってみようとした。」十二人の業を聞き、ヘロデはイエスを思い会いたいと思います。キリスト者を通し人々はイエスに会います。
ある人が、世界がイエスに出会っていない二つの理由をあげました。一つは、キリスト者に会っていないから、もう一つは、キリスト者に会ったからだそうです。どちらも起こって欲しくありません。私たちを贖い、召し、弟子とし派遣してくださる、主イエス・キリストに申し訳ありません。悔い改め、真にキリストの弟子として生かしてくださいと主に祈り願うばかりです。