コンテンツへスキップ 投稿日:2023年4月11日/更新日:2024年12月25日

ルカ3章15-22節。ヨハネの証言

バプテスマのヨハネ

民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。ルカの福音書3章15-22節 聖書協会

イエスの公生涯の始まり 

周辺国との闘いが続き、国内の混乱と争いのなかイスラエルの民に、救い主の期待は生まれては消えます。ローマ帝国の支配下で救い主への待望は一段と強まり、ヨハネがキリストではあるまいか、と心の中で考えます。心の中で、は当時の状況を反映しています。皇帝の下、メシアを公にすることは危険です。

ある独裁国家を訪れたとき、入国審査は徹底して行われました。その後、スーツケースに潜ませた聖書を街の通りで配布したところ、あっと言う間になくなります。メモ用紙に写した聖句もなくなります。地下教会で真夜中の礼拝があり、みことばを聞く若人が二百人ほどいます。神が生きている確信の証言が溢れました。

民は、ヨハネに一縷の望みを持ち、救い主、キリストを待望します。王や指導者ではなく、ヨハネのことばからの救い主です。今日、救い主への渇望、望みはどうか。初めの到来は起こり、再び到来する願い、この二つの到来の狭間で、主イエス・キリストを信じ生かされたい願いはどうか。主よ、来てくださいと願う信仰はどうか、キリストを聖書に閉じ込めていないだろうか。

みことばに従う弟子により、聖書のページから飛び出しているにキリストがおられるだろうか。キリストの霊が、私たちを宮とし近くで生きているだろうか。目先の慌ただしさに流され、主への渇きが薄れ、キリストが生きるこころが希薄化しているだろうか。ある方曰く、霊的日雇い状態にあるでしょうか。ヨハネに問う民は、世にあって神の国を生きることを望みます。

ヨハネの応答

救い主に渇く民衆に、ヨハネは、私ではないと伝えます。その異なりをバプテスマで明らかにします。罪の悔い改めのバプテスマがヨハネの業です。救い主のバプテスマは聖霊と火のバプテスマです。罪人が神の子等とされる義認のバプテスマです。ヨハネ時代から救い主の時代への大転換です。新しい時代の幕開けです。

ヨハネは民衆の神輿に乗らず、私よりもさらに力ある方がおいでになる、とことわります。彼らの想像を遥かに超える方が来ると伝えます。ヨハネが待望する方です。神に委ねられた使命を帯びたヨハネこそイエス・キリストの到来を待っています。苦難の歴史をたどり、今圧政下にあるイスラエルの民もヨハネのことばに期待を膨らませます。

どのような力でしょうか。世の権力に対峙する力でしょうか。そうならば、軍事力、政治経済力を誇るでしょう。この闘いは今日もあり、その傾向が強化される兆しがあります。この力は、歴史を屍でおおい、瓦礫を積み上げるだけです。ほこりにまみれ飢餓状態の子どもたち、嘆き叫ぶ女性たちをうみだしています。世の力の果ては悲惨です。力を競い、滅びへと進んでいる人間の罪です。悪魔の顔、破壊者が人間の誇りの背後から笑みを浮かべます。

よりちからある方は、地上の力に依りません。そうではなく、罪を赦すちから、罪の報酬である死に十字架で勝利するちからある方、墓を空にするちからある方です。神の一人子だけが持つちから、神の御子だけがなせる世界、新創造のちからある方が来ようとしています。

民衆の期待の中、ヨハネは自身の立場を語ります。来る方、救い主のくつのひもを解く値うちもない私です。くつはほこりをかぶり、人を支えます。くつをへりくだりの比喩としたかもしれません。中東では、軽蔑の行為として靴を投げつけ、靴でたたくことがあります。靴がもつイメージがぶっつけられた者の辱めを象徴するのでしょう。

ちからある方

へりくだりとして、靴のひもを解く値うちもないと言います。おとずれる方に比較し、途方もないへりくだりの位置にあると告白します。ヨハネを超えた救い主を明らかにします。この方のちからに出会うのは後になりますが、跪いて弟子の足を洗う強さです。主イエスを裏切り、敵に渡す者の足を洗う強さです。地上の強さに無いものです。唯一来たる方が現す愛の強さです。

また、救い主の裁きが門口に迫っていると説きます。ちからある方のもう一つの姿、裁き主です。季節ごと繰り返される事を通し裁きの事実を伝えます。例えが麦と殻です。誰も食します。全てが裁きの座に就き、逃れることが出来ません。裁きの凄まじさを宣言し、その他多くを教えます。それで終わらず、福音を告げます。裁きの迫りを語り、福音があると宣言します。

福音の紹介者を権力者は捕らえます。自分の悪を暴き、咎める者の口を封じるために投獄します。悪事に悪をさらに重ねます。神に委ねられた権威を畏れない者は、狂気の業を正当化し、それに溺れます。狂気が時の常識となり、大手を振って通りを歩きます。あの時代、この時代も底なしの闇で狂気が乱舞します。闇を暴くヨハネは投獄されます。

ヨハネの業が回想され、神のみこころがあらためて明らかにされます。群衆とともに主イエスがヨハネにより水に浸かります。神の子、神であられるお方が群衆の列に立ち水没します。罪を知らないお方が罪人の列に加わります。父なる神の義がなるようにバプテスマに与り、祈ります。天が開けます。

天から、主イエスに聖霊が降ります。父なる神の声が響きます。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」主イエスの御業を支え、進める父なる神のことばです。御業の始まりは恐れと義務ではなく、聖霊の降りと、父なる神の愛の宣言からです。今日も、主の御業は父なる神の愛に応答する者たちにより前進しています。

蕨キリストの教会 戸村甚栄

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