コンテンツへスキップ
HOME » 聖書入門サイト » イエス・キリストはどんな方か » クリスマスの真実-2つの意味

クリスマスの真実-2つの意味

クリスマスツリーを飾る家族

クリスマスの真実とは?なぜ、キリストの誕生は「降誕」と言うのでしょうか?クリスマスの出来事とは、視点を換えれば「神の受肉」なのだと言われますが、それは一体、どういうことなのでしょうか?そして、なぜ、そんなことが必要なのでしょうか?

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」 フィリピの信徒への手紙2章6~8節 聖書教会 

クリスマスの真実 降誕

いよいよ年の暮れ、師走12月になりました。そして、12月と言えば、クリスマスです。ちなみに、クリスマスとは、神の御子イエス・キリストの「降誕」を覚え、喜ぶ時です。

ところで、イエス・キリストの誕生を敢えて、降りて来て誕生するという意味で、「降誕」と言うのはなぜでしょうか?実は、聖書によれば、キリスト誕生とは本来、神であったお方が人間の低みにまで降りて来られ、人と成り下がられたということなのです。

このことを専門用語では「神の受肉」と呼びます。ちなみに、「受肉」と言っても、その辺のお肉屋さんで、スライスをお願いしておいたロース肉200gを受け取ることではありません。言うなれば、それは、全知全能で、永遠無限の霊的な存在である神が、有限矮小な人間の肉体を受け入れて、人となられたことなのです。

ちなみに、あなたは、「神の受肉」の大変さを想像できますでしょうか?・・・かの「ナルニア国物語」の著者、C.S.ルイスは、もし、あなたが神の受肉の大変さを垣間見たければ、直ちにナメクジになることを想像しなさい、と言っています。そんな大きな大きな犠牲を払って、神は受肉して、人間に成り下がられたという訳です。

それは一体、なぜでしょうか?・・・簡単に言えば、こういうことです。人の気持ちは人にしか判りませんし、人の身代わりは人にしかできないからです。多くの宗教は、人は死んだら神となると考えますが、聖書によれば、人はどこまでも人であり、神になることはあり得ません。ましてや、自らを救うことはあり得ないのでしょう。そこで恵みの神は、這い上がれない私たち人間のもとへ、逆に、降りていく決意をなさったのです。

 冒頭で掲示した聖書の言葉にありますように、キリストは神であることを辞めて、大きな犠牲を払って人となられ、私たち人間の艱難辛苦を全て舐め尽くされ、それらを直に体験されたのです。そのためにこそ、降りて来られたのです。

英語で「理解する」は、“under-stand”、すなわち、「下に立つ」と書きますが、まさに、神は私たち人間をとことん理解するために、under-stand”、すなわち、「下に立つ」べく、人の低み、私たちの低きにまで降りて来て下さったのではないでしょうか?そして、私たちを理解し尽くして下さったキリストは、これしかないと言って、あの贖いの十字架に架かって下さったのです。

クリスマスに隠された本当の意味

クリスマスに隠された本当の意味とは何でしょうか。年末の町々では、クリスマス・ツリーがあちこちで飾られています。クリスマス・デートとして、男女が手を取り合い時間を楽しんでいるかもしれません。クリスマスに隠された本当の意味とは? 野口良哉伝道者が読者の皆様へ改めてお伝えします。

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリヤは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」ルカによる福音書2章6~7節 聖書協会

まもなくクリスマスです。クリスマスとは、平たく言えば、イエス・キリストの誕生日。ちなみに、誕生日で、最も喜ぶべきなのは一体、誰でしょうか?言うまでもなく、それは誕生日を迎える当事者に他なりません。その論理で言えば、クリスマスは、イエス・キリストの喜ぶことをすべきではないでしょうか?クリスマス・パーティーやクリスマス・プレゼントも決して悪くはありませんが、むしろ、受けるクリスマスではなく、与えるクリスマスこそが、誕生日を迎えるイエス・キリストの喜ばれる、真のクリスマスと言えるかもしれません。

田舎の小さな教会で…

田舎の小さな教会で、子供たちによるキリスト降誕劇が演じられることになりました。子供たちはそれぞれ自分の役をもらい、一生懸命練習し始めました。ところが、太郎君という名の少年にはなかなか役が割り当てられません。というのも、彼には軽度の知的な障がいがあったのです。結局、大人たちは考えた末、太郎君に宿屋の主人の役を与えました。「ダメだ、いっぱいだ。だけど、馬小屋だったら空いてるよ。」。台詞はこれだけです。でも、太郎君は役が与えられたことを喜び、彼なりにそれはそれは一生懸命練習しました。

そして、クリスマス・イブの降誕劇当日。満員の観衆にとって、クライマックスはもはやイエス・キリスト誕生の場面でも、三人の博士たちの歴訪でもありませんでした。ヨセフと身重なマリヤが宿屋の扉を叩き、そこに出てくる宿屋の主人、すなわち、太郎君がちゃんとできるかどうか、それこそがクライマックスだったのです。

手に汗握る観衆の前に、太郎君が現れました。「ダメだ、いっぱいだ。だけど、馬小屋だったら空いてるよ。」。太郎君は完璧にその台詞を言い、その役をこなしたのです。観衆一同はホッと胸を撫で下ろしました。と、次の瞬間、想定外の事が起こってしまいました。太郎君は、寂しく立ち去るヨセフとマリヤを呼び止めて、涙ながらこう叫んだのです。「ヨセフさん、マリヤさん、行かないで!ボクの部屋でイエス様を産んでよ。そんな寒いところに行かないでよ。」。太郎君は知的障がいのために劇と現実が一緒になってしまったのでした。

当然、降誕劇は中断を余儀なくされました。しかしながら、観衆の誰一人として文句を言う者はありませんでした。それどころか、一同深い感動をさえ覚えたのです。そして、皆こう思いました。太郎君のしたこと、これこそが本当のクリスマスなのだ!太郎君は確かに、その心の部屋にイエス・キリストを迎え、そこにイエス・キリストを誕生させたのではないでしょうか? 

読んで下さいましたあなたに、神の平安とクリスマスの祝福が豊かにありますように。

シャローム & メリー・クリスマス!

御茶の水キリストの教会 野口 良哉

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

モバイルバージョンを終了