バレンタイン・デーは、愛の贈物をする日。一説によると、結婚が禁じられていた時代に、大きな犠牲を払って、愛し合う二人のために挙式した司祭ウァレンティヌス(=バレンタイン)の殉教に由来する。神の愛に応えて、私たちも誰かに、小さくてもでき得る与える愛の贈物をしたい。
受けるよりは与える方が幸いである。新約聖書「使徒言行録」20章35節 聖書協会
二月になりました。二月と言えば、いわゆる「バレンタイン・デー」。コンビニなどでは、お正月の後は、年賀状や飾り餅などのお正月の品と入れ替わりで、バレンタイン仕様で、チョコレートが目立つところに所狭しと陳列されているのではないでしょうか?
ちなみに、世界的には、バレンタイン・デーの贈物は必ずしもチョコレートとは限りません。また、この日、女性が男性に贈るというのも、ほぼほぼ日本だけのようです。一説によると、日本の菓子メーカーの策略だとも言われますが、真相はいかに?
ところで、諸説あるようですが、バレンタイン・デーにまつわる逸話はおおよそ次のようなものです。・・・紀元3世紀頃、時のローマ皇帝・クラウディウス二世は、若者が出征、すなわち、戦争に行くことを拒否する最たる理由は恋人や妻を故郷に残すことを躊躇する気持ちにあると確信し、なんと結婚自体を禁止してしまいました。そんな中、悲しむ若者たちのために、司祭のウァレンティヌス(=バレンタイン)はひそかに愛し合う者たちの結婚式を執り行なったのです。やがて、それを知って怒った皇帝は、ウァレンティヌスを処刑。その処刑日が結婚の守護女神ユーノーの祝日である2月14日でしたことから、それ以降、毎年2月14日には、ウァレンティヌスを偲びつつ、愛する者たちがその愛を告白し合ったという訳です。ある意味、ウァレンティヌスは、まさに、その与える愛を発揮して、大きな犠牲を払いつつ、愛する者たちをとりなしたということなのではないでしょうか?
本日の聖句にありますように、イエス・キリストは「受けるよりは与える方が幸いである」と語っています。そして、イエス・キリスト自身、実際に、十字架上での贖いの死をはじめ、まさに、与える愛を体現なさいました。そして、また、こうも言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ伝15:12)と。
ぜひ、今年のバレンタイン・デー、高価な義理チョコのために高額を払うよりも、高価で尊い誰かのために、神の愛、キリストの愛に応えて、私たちのでき得る小さな愛を差し出そうではありませんか?わずかでも可能な犠牲をこそ払いたいと思います。被災者救援の募金などもあるかと思います。もちろん、無理はしなくてもいいと思います。ただ、できる範囲で、あなたの与える愛を、私の与える愛を差し出しましょう。・・・わずかチョコっとでも!?
愛の贈り方 愛は聴くことから始まる
漢字には主に、新聞の聞の「聞く」と、視聴覚の聴の「聴く」がある。「聞く」はやや消極的で、英語の“hear”に当たる。漢字もよく出来ていて、自分という「門」の中にある小さな「耳」で聞く、と書く。つまり、聞きたくないことは門前払いするという一面的な聞き方なのではないだろうか?一方で、視聴覚の聴の「聴く」は、より積極的な聴き方で、英語の“listen”に当たる。これまた漢字もよく出来ていて、耳偏が大きい。大きく「耳」をそばだてて聴くということか?そして、その右側が「十四」の「心」となっている。相手が何を言おうと、「十四」の「心」をもって柔軟に受け止めるという聴き方なのであろう。そんな「聴き方(listening)」ができたら、それはまさに“愛”である。
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。(フィリピの信徒への手紙2章4節)
あるお子さんがママもしくはパパの似顔絵を描く際に、決まって口を顔面の半分ほどに大きく描く一方で、耳を描くことはないというのです。心理学者はその絵を分析してこう言いました。この子は訴えているのだ、「うちのママあるいはパパはガミガミ、ガミガミ言うだけで、私の話、ぼくの話をちっとも聴いてくれない。」と。その子は無意識のうちに、口を大きく描く一方で、耳を描かないのだという訳です。
「愛(LOVE)は聴くことから始まる」と言われます。だからと言って、ただ聞けばいいというものでもありません。ちなみに、漢字には、新聞の聞の「聞く」と、視聴覚の聴の「聴く」がありますが、新聞の聞の「聞く」はどちらかと言えば、やや消極的な聞き方で、英語の“hear”に当たります。「聞こえる」といった感じでしょうか?「聞」という漢字もよく出来ていて、自分という「門」の中にある小さな「耳」で聞く、と書きます。つまり、聞きたくないことは門前払いする訳です。
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それに対しまして、視聴覚の聴の「聴く」は、より積極的な聴き方で、英語の“listen”に当たります。真剣に耳を傾けるというイメージです。これまた「聴」という漢字もよく出来ていまして、耳偏が大きいですが、大きく「耳」をそばだてて聴くということでしょうか?そして、右側が「十四」の「心」となっていますので、相手が何を言おうと、「十四」の「心」をもって柔軟に受け止めるという聴き方です。そんな「聴き方(listening)」ができたら、それはまさに“愛”なのではないでしょうか?
「私の話を聞いて下さい」という作者不詳のこんな詩があります。「私の話を聞いて下さいと頼むと あなたは助言を始めます。私はそんな事を望んではいないのです。私の話を聞いて下さいと頼むと あなたはその理由について話し始めます。申し訳ないと思いつつ私は不愉快になってしまいます。私の話を聞いて下さいと頼むと、あなたは何とかして 私の悩みを解決しなければという気になります。おかしなことに、それは私の気持ちに反するのです。祈ることに慰めを見出す人がいるのはそのためでしょうか?神は無言だからです。助言したり調整しようとはしません。神は聴くだけで、悩みの解決は自分に任せてくれます。だから、あなたもどうか黙って、心静かに私の話を聞いて下さい。話をしたかったら、私が話し終わるまで少しだけ待って下さい。そうすれば、私は必ずあなたの話に耳を傾けます。」
愛は聴くことから始まる。・・・まずは、相手の話にじっくりと耳を傾けることから始めたいと思います。 最後まで読んで下さいましたあなたに、神様の平安が豊かにありますように。シャローム!
