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ホセア書の解説-現代への警告と神の憐み

ホセヤ書

旧約聖書の小預言書の1つ、ホセア書の解説をします。ホセア書が語る、現代に生きる私たちへのメッセージは、何でしょうか。まず、その歴史的時代的背景を説明します。さらに、ホセア書の概要について述べ、現代に語り掛けるメッセージを考察します。

目次

ホセヤ書の歴史的時代的背景

ホセア書は、旧約聖書の中の書物の1つであり、「小預言書」にカテゴライズされる。内容は、ホセアによる北イスラエルの民への預言である。

内容に踏み込む前に、著書であるホセアや、ホセア書が書かれた時代背景について触れておきたい。著者のホセアは北イスラエル王国出身で、紀元前750年前後の預言者とされている。北イスラエルの王であったヤロブアム2世の晩年から、王国滅亡に至る時期に関する預言が記されている。同時期に活躍した預言者として、ヨナ、アモス、ミカ、イザヤなどが挙げられる。

当時の北イスラエル王国は経済的な繁栄期を迎えていた。その一方で、霊的には堕落しており、バアルやアシェラなど、異教の神々を崇めたり、隣国アッシリアやエジプトと同盟を組んだりするなど、信仰の空洞化や偶像礼拝が深刻な状況となっていた。そのような北イスラエルの民に対して、ホセアは、神による裁きを預言し、悔い改めと神の愛を説いたのである。

ホセア書は、大きく分けて3つの構成から成っている。①1~3章、②4章~10章、③11章~14章である。各構成のメッセージについて、それぞれの聖句を元に考えていきたい。

ホセヤ書1章ー3章

ホセア書は衝撃的な文言から始まっている。主なる神はホセアに、淫行の女を妻として迎えるように命じるのである。

1章 淫行の女を妻に

主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」1章2節 聖書協会

なぜ主なる神は、ホセアにこのような命令を下されたのか。淫行の女であるゴメルとの結婚を通して、主は何を示そうとされていたのだろうか。

淫行の女とは、霊的に堕落したイスラエルの民を象徴している。異教の神を崇めるイスラエルの背信を、ここでは「淫行」に例えているものと考えられる。更に、淫行の女であるゴメルとの結婚を通して、主は、預言者であるホセアに、神ご自身が抱えておられる「姦淫の痛み」「裏切られる苦しみ」を教えようとされたと推察することが出来る。

現に、ホセアとゴメルの間には子どもが3人も与えられたが、そのいずれも、神様から祝福されていないことが聖書から読み取れる。

更に、3人目の子どもにはロ・アンミという名が付けられている。これは「わが民ではない者」という意味であり、命名の根拠として8節に「あなたたちはわたしの民ではなくわたしはあなたたちの神ではないからだ」とある。聖書協会

子孫繁栄が神からの祝福の1つとされていた当時のイスラエルにあって、この命名は極めてショッキングな出来事であると言える。それだけ、イスラエルの民の、神に対する背信行為の罪深さが表されていると言えるのではないだろうか。ホセアは、どのような想いで子を抱き、育てたのであろうか。

2章 イスラエルの民への回復 

しかし、2章では、イスラエルの民への回復が告げられる。「私の民ではない」と語られた民が、「行ける神の子」と呼ばれるようになるのである。2章23節~25節にはこうように記述されている。「その日が来れば、わたしはこたえると主は言われる。わたしは天にこたえ天は地にこたえる。地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ、それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。わたしは彼女を地に蒔きロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみロ・アンミ(わが民でない者)に向かって「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。」聖書協会

憐れまれないものを憐れみ、わが民でないものをわが民と呼ぶ。ここに、主なる神の慈悲深さ、恵み深さ、寛大さを見ることが出来る。

3章 改めてゴメルを愛すように

続く3章では、主なる神の愛が記述されている。3章1節で主なる神はホセアに、あらためてゴメルを愛するようにと語られる。その理由が3章2節、3節に記述されている。「イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」 そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。わたしは彼女に言った。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」聖書協会

バイブルナビの解説によれば、ゴメルは3人の子供を出産したのち、ホセアから一時期離れていたと考えられる。ホセアと離れている期間、ゴメルは、自身の体を売ることで生計を立てていた可能性がある。そのようなゴメルを再び愛せよと、主はホセアに語られた。そして、ホセアは主なる神の命令に従い、彼女を買い取り、自分のものとしたのである。

買い取る、という行為には犠牲が伴うことは想像に固くない。ホセアは、代価(銀15シェケルと大麦1ホメル、1レク)を払い、ゴメルを愛する道を選び取った。この行為は、イスラエルの民を想う主なる神の恵み深さを示していると言える。と同時に、御子イエス様という代価を払ってでも私たちを救おうとされた、父なる神の愛をも見出すことが出来るのではないだろうか。この個所を、主イエス・キリストの十字架の犠牲を暗に示している、とする見方は拡大解釈であろうか。私は許容範囲の解釈ではないかと考える。

ホセヤ書4-10章

4章~10章は、霊的に堕落したイスラエルの民に対する主なる神の告発と、それでもなお失われない神の愛について述べられている。

4章 主の告発

 新共同訳において、4章の最初の小見出しは「主の告発」となっている。4章8節には「お前が神の律法を忘れたので、わたしもお前の子らを忘れる」とある。北イスラエルの民が偶像崇拝にふけり、主なる神を信じないが故に、神は民を忘れる、というのである。   

4章17節~19節には、民を見放す神の姿が記されている。「エフライムは偶像のとりこになっている。そのままにしておくがよい。彼らは酔いしれたまま、淫行を重ね、恥知らずなふるまいに身をゆだねている。 欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み彼らはいけにえのゆえに恥を受ける。」聖書協会

5章 神の審判

 続く5章では、裁きの予告と、北イスラエルの祭司、あるいは政治的な罪についての指摘が記されている。5章1節には「お前たちに裁きが降る」と明確に書かれている。なぜ裁きが下されるのか。それは、イスラエルの民が、主なる神ではなくアッシリアに助けを求めたからである。5章13節に「エフライムが自分の病を見、ユダが自分のただれを見たときエフライムはアッシリアに行きユダは大王に使者を送った」と記されている通りである。聖書協会

6章 イスラエルの偽善

 6章の1節には「さぁ、我々は主のもとに帰ろう。」と記されている。一見するとイスラエルの民が悔い改めているかのように読めるが、実際にはこの悔い改めは偽りであった。6章4節に「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消え失せる露のようだ。」とある。主なる神は、イスラエルの民が心から悔い改めていないことを見抜かれておられた。続く6章6節には、有名な聖句が出てくる。6章6節「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす捧げ物ではない」。

イザヤ書1章13節から15節には、心が伴わない人間の宗教的儀式や祈りを拒絶される神様について記されているが、これは、ホセア書6章6節の言葉に重なる。主なる神が本当に求めてられることは、主なる神をこそ神とし、心から崇めることなのではないだろうか。

なお、ホセア書6章6節は、新約聖書においてイエス様が引用された個所としても知られている。マタイによる福音書9章13節において、イエス様はホセア書6章6節を引用した上で、「その意味を学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語られている。私は、主イエス様のホセア書の引用という出来事から、旧約聖書と新約聖書における、神の御性質の同一性を読み取れるのではないかと考える。

7-10章 イスラエルの罪に対する裁き

ホセア書には、イスラエルの民の罪を糾弾し、裁きを告げる神が描かれている。現に、7章11節では、イスラエルの民のリーダーたちが犯した罪について記されているし、8章においても、民が王を望んだことや、偶像を拝するといった人間の愚かさが記されている。また、9章~10章においても、エジプトに助けを求めたことの罪や、偶像礼拝の罪、イスラエルの民の罪についての言及がある。ホセア書10章13節に「ところがお前たちは悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ 」とある。聖書協会

神を神とせず、神を頼ろうとしないどころか異教の神を崇拝し、人間の力を頼りにすることを、神は見過ごされない。ここに、神の義の側面を見ることが出来る。しかし、神の義の側面は、旧約聖書のみにみられるものではない。新約聖書の時代においても、義なる神は描かれている。

使徒言行録5章には、アナニアとサッピラが神の裁きに遭い、死ぬという出来事が記されている。聖霊降誕後間もなく時期であり、教会が誕生したばかりであるという点を考慮しても、神を侮ることがいかに罪深いことであるのかということを、私たちはアナニアとサッピラからから学ばなければならない。神の義というご性質を忘れてはならないのである。旧約聖書は神の義を強調し、新約聖書は神の愛が強調している、ということではなく、旧約聖書でも新約聖書でも一貫して、義、そして愛という主なる神のご性質が貫かれていると捉えるべきである。

ホセヤ書のテーマ 11-14章

 ホセア書に戻り、③11章~14章に着目したい。ホセア書11章には、主なる神の変わらないもう一つのご性質が描かれている。それは、愛である。11章1節には「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」とある。イスラエルの民を「わが子」と呼ばれる神がおられる。この言葉は、主イエス様のバプテスマの際に主なる神が語られた言葉と重なる。マタイによる福音書3章17節には「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」とある。父なる神様が御子イエス様を愛されたように、主なる神は、イスラエルの民を愛されていた、と言っても過言ではないのではないだろうか。

 続くホセア書11章8節と9節にも、主なる神様の愛と恵み深さが記されている。「ああ、エフライムよ。お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。 わたしは、もはや怒りに燃えることなくエフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」聖書協会

堕落したイスラエルの民を、それでもなお憐れむ神の愛は、主イエス様の十字架上での贖いの死、そして復活という出来事を通して、時代を超えて、国を超えて、今に生きる私たちにも注がれているのである。

 続く12章には、ホセア書のメインテーマとも言える言葉が記されている。12章7節である。「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め。」預言者ホセアを通して神がイスラエルの民に語られ、また願われたことは、常に主なる神様を信頼して歩むことだったのではないだろうか。そして、その神の熱情ともいえる想いは、いまだに変わることなく、私たちに向けられているのである。 ホセア書14章5節。「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。」常に自分自身を悔い改め、神を愛し、隣人を自分のように愛していくことが、私たちキリスト者には求められているのであろう。

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