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インマヌエル主は私たちと共にいる-1つの原則

インマヌエル

神無月にもインマヌエル!10月は旧称で「神無月(かんなづき)」。一説によると、神々が出雲大社に集結するため、各地方では不在になるとか。・・・一方で、聖書に示される神様は、一時的にも“不在”になることは決してありません。人生という航海の嵐の中にさえも共にいて下さるのです!

「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。・・・。」「・・・わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 

イザヤ41章10節、マタイによる福音書28章20節

ようやく朝夕の涼しさに秋らしさを感じ始めることができるようになりました。そして、暦の上では早くも10月です!? ちなみに、10月は旧称で「神無し月」と書いて「神無月(かんなづき)」。

この表現の語源に関する最も有力な説としては、「神の月」という意味での「神な月」がその語源のようであります。ちなみに、梅雨時期の6月が「水無し月」と書いて「水無月(みなづき)」と言われるのも、同じように「水の月」、すなわし「水な月」からだそうです。

ところで、平安期以降に出雲大社の御師(おんし)が広めたとされる語源俗説では、おおよそ次のように伝えられております。すなわち、この時期、10月に、ほぼ全ての神々が出雲(大社)に集まって翌年のことについて会議をするために、出雲以外では神々が留守にするので「神がいない月」という意味で「神無月」であるという訳です。なお、出雲だけは10月を「神在月(かみありづき)」と言うそうであります。

それはさておき、私たちが信じる神様、聖書の神様は、(三位一体の)唯一の神であり、一時的に“不在”になることは決してありません。神の言葉である聖書には度々、常に私たちと共に居て下さることが述べられています。先程お読みした聖書のみことばにある通りであります。・・・「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。・・・」。「・・・わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」。

湖上の嵐(⇒マルコによる福音書4章35~41節)の際、弟子たちの乗った舟に同船された主イエスは、弟子たちの叫びに応じて、風をしかりつけ、嵐をなぎへと変えられました。同じように、神様は、「あなた」や「私」という舟にも常に同船していて下さるのであります。そして、時に応じて「風」に象徴される、私たちの様々な心配や不安を抑えて下さり、人生という航海の「嵐」を、平安に満たされた「凪」へと変えて下さるのであります。

10月は旧称で「神無月」。神がいないと書きますが、そんなことはありません。聖書のみことばによれば、神様はたとえ人生の嵐の中にあっても、必ずあなたと共にいて下さるのであります。

人を動かすインマヌエル

こんな言葉があります。「真の意味で、人を動かすものは何か?それは脅しでもなければ、見返りでもない。深い感動である。」主が共にいてくださるインマヌエルであり、主によって与えられる愛の感動です。

あの良きサマリヤ人のたとえに登場するサマリヤ人においても、その深い憐みの思い(感動)が、旅の忙しさやユダヤ人への敵意をも越えて、彼を愛の行動へと駆り立てたのではないでしょうか。

ところが、旅をしていたあるサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い・・・   ルカによる福音書10章33節 聖書協会           

イエス・キリストのたとえ話の中でもひときわ有名な「良きサマリヤ人のたとえ」。・・・一人のユダヤ人の旅人が峠道で強盗に襲われ、身ぐるみ剥がされて、そのままでは死んでしまいかねない大変な状況に陥ってしまいました。そこを三人の人物が通りかかります。同じくユダヤ人の祭司と、下級祭司レビ人。いずれも宗教指導者たちです。そして、もう一人は、ユダヤ人からは差別され、抑圧されていたサマリヤ人でした。

三人のうち二人、すなわち、祭司やレビ人は、道の反対側を通り過ぎて行きました。死体に触ると汚れて神殿での奉仕ができないという大義名分があったのかもしれませんが、いずれにしましても、不要な困難に巻き込まれないように、無関心を装ったのかもしれません。ちなみに、かのマザー・テレサに帰される名言に「愛の反対は、憎しみではなく、無関心です」というものがあります。このことから言えば、祭司やレビ人は、道の反対側のみならず、“愛”の反対側をこそ、通り過ぎて行ったのではないでしょうか?

それに対しまして、結果的に、サマリヤ人は、道の反対側、愛の反対側、そのいずれの反対側も通り過ぎることなく、なんとそんな重傷を負っているユダヤ人に「近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」上に、翌日、「デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して」「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」とまで言っているのであります。

なぜ、彼にそんなことができたのでしょうか?・・・ポイントは、サマリヤ人がそんな信じられないような敵をも愛する愛の行為に出る直前のこのくだりにあるのではないでしょうか?すなわち、「旅をしていたあるサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い・・・」というところであります。・・・「憐れに思う」、原語のギリシア語では、“スプランクニゾマイ”であります。そして、そんな“スプランクニゾマイ”の原意は「内臓が揺り動くほど心動かされる」という意味であります。ある方は、これを「断腸の思いに駆られて」と訳しています。名訳ですね。

こんな言葉があります。「真の意味で、人を動かすものは何か?それは脅しでもなければ、見返りでもない。深い感動である。」。まさに、このサマリヤ人の深い感動、内臓が揺り動かされるほど深い憐みの思いは、旅の途中という忙しさや、サマリヤ人としてのユダヤ人への敵意をも越えて、彼を瀕死の重傷を負っているユダヤ人のもとに誘ったのです。

 読んで下さいましたあなたに、神様の平安が豊かにありますように。

シャローム!

御茶の水キリストの教会  野口 良哉

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