敵対するパリサイ派の中から、一人のパリサイ人がイエスを自宅に招きます。食卓に着くとき、きよめの洗いをする習わしです。イエスは行いません。それを見て招いた者は異を唱えます。イエスはその者に、表面的つくろいと内面の醜さを指摘し、わざわいと厳しく指摘しわざわいとならない道、神を畏れ、愛することを語ります。
イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」ルカ第11章37~44節」 聖書協会
ひとりのパリサイ人
だれよりもまさった者がここにと言われるイエスに関心を持つパリサイ人が、イエスが話し終えるとすぐ家に招きます。多くがイエスに反感を持つなか、ひとりのパリサイ人が食事をいっしょにとお願いします。彼に批判的なパリサイ人たちがいても、このパリサイ人はイエスを家に招待します。
イエスは彼の家に入り、食卓に着きます。食卓はこころを開き、団欒の場となります。身分や業績を横に食を楽しみます。聖別された者と自負する者がイエスを招き食卓に着きます。食卓には最高の調度品、杯や大皿を並べ、招いた者の鼻は高々だったでしょう。
イエスが食前にきよめの洗いをなさらないのを見て、パリサイ人は驚きます。きよめの洗い、パリサイ派の儀式です。彼らの掟に倣うかどうか注視しているなか、イエスは彼らの流儀にかまわず食卓に着きます。それを見て驚きます。掟を無視する者への批判が起こります。
イエスの指摘
パリサイ人の驚きを越えるイエスのことばが食卓で放たれます。
「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。愚かな人たち、外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。」
イエスの話に期待したところ、自分たちの欠けが露わにされます。あなたがたパリサイ人、イエスを招いた者も含まれます。彼らは掟を堅く守っているが、外面だけで器の内側は強奪と邪悪でいっぱいと断言されます。外面は掟に厳しく対処するが、内面、こころに邪な思いが満ちていると言われます。
招いた者の面子がまるつぶれです。もてなしの食卓の杯と大皿になぞらえて語られます。それらの外面と内面が異なること、二心の歩みを糾弾されます。招く者への遠慮や、せっかくの会食の席で荒波をたてることを控えるのが招かれた者のエチケットでしょう。家の主人の立場を失うことはしないでしょう。しかし、ここでは欠けを指摘し、愚か者とさえ呼びます。
創造主は外側も内側をも良く造られたことを信じない愚かさです。創造主は、あなたがたにご自身の性質を反映し、ご自身のご栄光を現す器として、あなたがたの外側と内側、どちらもよく造られました。それを知り、この真実を民に説く者が内外を使い分けます。みこころを踏みにじる愚かさです。
愚かさの内容を語ります。内外が乖離した姿は、創造主のみこころではない事を明らかにします。それに気付き、悔い改め、内のものを施しに用いなさい、と迫ります。強奪と邪悪を謀る内側が変えられ、他者への愛の業となるようにしなさい、と迫ります。内側が愛の人に変えられ、外側に愛が現れるあなたがたこそ本来の姿です。愛で満たされるならいっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります、とイエスが太鼓判を押します。
掟を守りきよくあろうとする彼らが、行いできよさを求めれば求めるほど、外側と内側のズレが大きくなります。守ろうとすればするほど、守れない自分が露わになります。愚かな人たち、になったのです。愚かな人たち、と呼ばれたパリサイ人が愛の人とされ、施しの人へ変わることが出来るのです。愛に満たされ、愛の人とされたとき、彼らが求めるきよさが全うされます。
わざわいのパリサイ人
だが、とイエスは続けます。「わざわいだ」、と断言します。パリサイ人を「わざわいだ」、と言います。「わざわい」は嘆きの告発です。深い悲しみからの非難です。イエスの悲嘆から生まれた「わざわいだ」のことばが、彼らには告発に聞こえ反発し、愚かな人たち、と言われ、「わざわいだ」、パリサイ人、おまえたちは、と迫る厳しいイエスのことばに憤ったでしょう。
彼らの「わざわい」をイエスは指摘します。十分の一を捧げるが、なおざりにしていることがあります。行為はお決まりでやるが、内側が抜け落ちています。神の義と神への愛です。ただし、十分の一の捧げもなおざりにしてはいけません、とイエスはことわります。外側か内側、どちらかではありません。裁かれる神への畏れと愛で満ちる内から起こる行動です。外側が内側とひとつになります。
わざわいだ。パリサイ人。おまえたち、の呼びかけが続きます。
「わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。」
「わざわい」が繰り返され、公義と神への愛の欠けをさらに取り上げます。律法を民に説く者が、人の上に立ちたがり、評価を自分のものとする姿勢が問題です。仕える神の場に、自分が立つ不遜な振る舞いが「わざわい」です。律法に仕え、愛の実践者が、律法を自分のために用い、神に委ねられた権威を私物化し、自分を誇る道具にします。だから、「わざわい」です。
そして、三度目の「わざわい」です。
「わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」
イエスを招き、食卓でもてなす力があり、指導力を発揮するひとりのパリサイ人に、イエスは「わざわい」のことばを繰り返します。イエスを招いたパリサイ人をはじめ人々は、「わざわい」の告発に衝撃を受けたでしょう。彼らにイエスは「わざわい」にならない道を語ります。神を畏れ、神を愛することを語ります。
パリサイ人や食卓を囲む者たちのため、私たちのためにイエスは十字架へ向かいます。「わざわい」のことばは、ご自身の身を裂く愛の告発です。「わざわい」のことばは、ご自身の血潮を流し人々を救うための愛の告発です。「わざわいだ」の御声を聞かなくてはなりません。いま響く、主イエスの悲嘆の御声にこころの耳を閉ざしてはならないのです。
