コンテンツへスキップ 投稿日:2025年6月13日/更新日:2025年6月14日

主イエスを見る者の幸いと喜び-ルカ10章17節

主イエスを見る者の幸い

弟子たちは、受け入れと拒否のなか福音を伝えます。それを終え喜んで主イエスのもとに帰ります。主は彼らの喜びを受け止めつつ、喜びは天に彼らの名が書かれていることと言われます。そして、イエスの喜びです。聖霊により、父なる神との交わりで生まれる喜びです。それから、主イエスを見る者の幸いを明らかにします。

七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」ルカの福音書10章17-20節 聖書協会

喜ぶ弟子たち  

派遣された弟子たちの様子はありませんが、直前にイエスが予告した、受け入れられ平安を宣言し、また拒否され平安が自分たちに返る旅であったでしょう。歓迎と拒絶のなか御国のおとずれを宣べ伝えます。足を踏み入れるまで状況が不明です。困難に陥ることもあったでしょう。それでも御国宣教の旅は続きます。

受け入れと拒否のなか、彼らの業は一貫します。御国の到来を伝えます。歩みの土台は世間の評価や成果の有無ではありません。周辺の反応、彼らの働きがどうでも、土台は派遣者イエスのみことばです。旅から帰り喜んでイエスに伝えます。喜び溢れる体験をいの一番に報告したかったのです。

「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」

驚きの成果は、弟子たちの誇り、喜びです。疲れが一挙に吹き飛んだでしょう。苦難のなか、華々しい体験でした。苦難をようやく乗り越えた直後の出来事だったかも知れません。人の力ではどうすることも出来ない、悪霊に勝利します。主の御名のちからを目の当たりにします。弟子たちは驚き、興奮したでしょう。それを見た人々も仰天したでしょう。

喜ぶ弟子たちへのみことばです。「わたしが見ていると、サタンがいなずまのように天から落ちました。」イエスは弟子たちを見ています。「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。」弟子たちは興奮していたが、イエスは働きにあまり触れません。ただ、起こった事柄を述べます。

主イエスを見る者の幸い

だが、しかし

その直後のみことばに弟子たちが耳を傾けるべき真実があります。「だから、あなたがたに害を加えるものは何もありません。」弟子たちは害を加えるものは何も無い実体験をしたのです。受け入れられた地では当然のことながら、拒絶された地でも彼らは守られイエスに帰れました。

イエスは、弟子たちへお語りになります。

「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

成果で興奮気味の弟子たちに、良くやった、ではなく「だがしかし」です。耳を疑ったかもしれません。喜びに冷や水を浴びせかけるようなおことばです。彼らが有頂天になっていたことをたしなめます。彼らの働きは大切です。「だがしかし」です。狼の群れのなかに送り出す羊です。それでいて、万全の備えでありません。成果の一つが悪霊を服従させたことかもしれません。成功体験が弟子たちをの旅の力になったでしょう。「だがしかし」です。

喜びの源

「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」弟子に悪霊を追い出す権威と力を与えます。しかし、弟子派遣は御国宣言が主で、悪魔祓いではありません。弟子たちの喜びは、成果でなく彼らの名が天にしるされていることです。

あなたがたの喜びの源は、あなたがたの名が天にしるされていることです。ここに喜びがあり、宣教の原動力があります。これからも拒絶され、打ちのめされることがあるでしょう。成果が出ない日、年月が続くかもしれません。喜び帰還できる日は少ないかもしれません。そのなか、あなたがたの喜びの井戸は、あなたがたの名が天に書かれていることです。

父なる神があなたの名を天に刻んでいます。どのような成果であろうと、状況であろうと、天に刻まれたあなたの名に、あなたが本物のあなたである礎があります。ここに、あなたがイエスに派遣される源泉があります。ここにあなたの喜びがある、とイエスは言われます。

そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。ルカの福音書10章21-24節 聖書協会

主イエスは喜ぶ

父なる神をたたえます。聖霊によって喜び溢れたたえます。喜びとほめたたえに始まる、父なる神との対話が聖霊によってとあります。イエスの喜びは、遣わした者たちの成果ではありません。勿論彼らの働きをイエスは喜びます。しかし、ここで父なる神をたたえます。

聖霊によって、霊の衝動での喜びです。こころ震える喜びです。このこころが天の父なる神と深く交わり、「あなたをほめたたえます」です。父なる神とイエスの一体は、ほめたたえの直後から語られます。すべてのものが、わたしの父から、父を知るのは子で、子が知らせようとする者のほか、だれも知る者はありません。

主イエスを見る者の幸い

そして、弟子たちに語ります。「あなたがたが見ていることを見る目は幸いです。」彼らが幸いと言ってよいと思います。しかし、彼らの目が幸いと言われます。私事ですが、以前ガリラヤ湖畔で辺りの風景を見た私の目は幸いだったことを思い出します。主イエスが見られた湖を見ている自分の目が幸いでした。主イエスといっしょのところに立つ幸いです。 預言者たちが見たくても見られず、聞きたくても聞けなかったことを弟子たちは、見て、聞いています。目で、耳で主イエスにお会いしています。この幸いを弟子たちに代わり主イエスが語ってくださいます。福音宣教は険しいけれども、名を天に記され、主イエスを聞き、こころの目で主イエスにお会いする旅は喜びであり幸いです。主イエスがそのように語るのです。

戸村甚栄 蕨キリストの教会

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