信仰と祈りの3原則について考えます。宗教と聞けば、ネガティブなイメージしか浮かばないかもしれません。宗教に騙され、妄信的に信じる人たちを見るからです。しかしクリスチャンの信仰は、主イエス様から学んで本物になれます。御心に適った信仰は、御心に適った祈りへと導かれます。
1.信仰と祈りの関係 祈りは信仰の裏返し
そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。マルコ11章22-24節 聖書協会
主イエス様は、神を信じる「みこころに適った信仰」と祈りが密接につながっていることを教えています。信仰は、そのまま祈りへと導かれます。信仰があるといっても、祈らない信仰などあるのでしょうか。おそらく、そのような信仰は、理論的に理知的に神を信じているに過ぎないのです。頭では信じていても、心では信じていないのです。管理人の最初の信仰は、まさにそのような偽物の信仰でした。しかし管理人は、上記の聖句を読んで気づかされました。自分の信仰は、上っ面の信仰だったことを。
心から主イエス・キリストを信じ心から祈る大切さを、管理人は知り日々悔い改めております。日々祈る習慣が、どれほど大事なのかを身に染みて実感しております。祈りがなければ、信仰もないからです。しかし神の御心に適った祈りは、「あれしてください。これしてください」というような、御利益宗教の祈りではありません。次に祈りの本質を考えてみます。
2.神の義を求める信仰と祈り
御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるようにも地の上にも。マタイ6章9-10節。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。マタイ6章33節 聖書協会
信仰によって、私たちは神を信頼します。神を慕い求めるのです。ここが「神の御心に適う信仰」か、「上っ面の信仰」か、「狂信的な信仰」になるのかの境目です。狂信的な祈りは、自分が欲しいものを願いひたすら「念じる祈り」です。祈る対象を自分のイメージで造り込んで、思い込む祈りです。
このような祈りを見聞するので、多くの日本人は上っ面の祈りをするのでしょう。神社仏閣で、信じてもいない半信半疑の思いで、言葉を唱えるだけです。日本人は、生まれて神社に連れていかれ、結婚式は教会で挙式をあげ、葬式は仏教式で行われると言われるように、どこでも何に対して呪文のように祈りの言葉を唱えることができるのです。
神の御心に適った祈りは、神を心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛する信仰に基づいています。この信仰によって、クリスチャンは神を慕い求め、神の国と義を求め、神の支配がこの地にあるように、また御心が行われるように祈るです。
3.神に委ねる信仰と祈り
最後になりますが、信仰と祈りの関係で最も大切な原則を考えてみましょう。
少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」マタイ26章29節 聖書協会
ご利益宗教の慣習は、日本だけの文化ではありません。いつの時代でもどこの文化でも存在しています。なぜなら、どんな宗教においても人は「これしてください、あれしてください。これが欲しい、あれが欲しい」と、祈りの対象である神仏に願います。ところが、主イエス・キリストは、この罪深い慣習を根底から覆したのです。
自分の願いではなく神の御心が行われるようにと、主イエス様は祈りました。この原則は、祈りの模範を示す主の祈りにも示されています。「何でも願えば自分の思い通りになる」と教えるのは容易いことですが、大きな過ちにもつながります。私たちの祈りの手本は、あくまでも主イエス様にあります。なぜなら、クリスチャンの人生の先生は、主イエス・キリストしかいないからです。
信仰と祈りの実践
ここまで信仰と祈りの関係3原則を説明してきましたが、この原則を実践しなければそれこそ「絵に描いた餅」になってしまします。主イエス様の忠実な弟子は、日々主を愛し慕い求め、その信仰によって祈ります。この実践がクリスチャンが成長する霊性を強めるのです。「よくやった。忠実なしもべだ」と主が認めてくださるクリスチャンになるのではないでしょうか。
いかがでしたか。読者の皆様の信仰と祈りが、聖霊なる神様によって導かれ、より深いクリスチャン生活を送れますように、心よりお祈り申し上げます。
