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教会とは何か-ある神学生が描く理想の教会像

教会とは何か

教会の起源について

 ここで、教会の起源についても触れておきたい。マタイの福音書16章18、19節には、このような記述がある。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(聖書協会)。

 主イエス様の弟子であったシモンに新たな名前が与えられる場面である。ここで注目したいことは、イエス様が「わたしの」教会を建てると語られている点である。この個所から、教会はイエス様に属するものであることが読み取れる。

キリストのからだとしての教会

コリント人への手紙第一12章を見ていきたい。12節には、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数が多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」とある(聖書協会)。

 教会が様々な人の集いであり、そのひとりひとりにはそれぞれに異なった賜物があることが記されていると解釈できる個所である。では、その賜物とは、何であろうか。私は、各々に働く聖霊の力であると考える。

 続く13節には、このように記されている。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(聖書協会)。

聖霊により一つとされる教会

 御霊、すなわち聖霊により、すべての人が一つとなるとされている。これは、聖霊の働きにより人が集うことによって、そこに教会が生まれることを示していると言えよう。

 14節~26節を見ると、聖霊により教会を形成する者とされたひとりひとりには、それぞれに役割があり、違いがあること、そして、弱さを抱える者も含めて教会が成立することが記されている。26節の「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(聖書協会)という言葉は、教会のあるべき姿を表しているのではないか私はと考える。 

教会とは何か

人は誰もが罪人である。教会とは、いわば「罪赦された罪人の集まり」であると言えよう。ゆえに教会は、兄弟姉妹の痛みを自身の痛みとし、共に支え合い、祈り合い、そして、主を喜び讃美する者の集まりと言えるのであろうし、そのような者、そのような教会へと変えられていくよう、謙遜な心で祈り続ける姿勢が大切なのではないだろうか。

 27節には、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」とある(聖書協会)聖霊によって一つの共同体となった者たちを、パウロは「キリストのからだ」と表現している。教会は、キリストのからだなのである。からだはその器官によってさまざまな働きがある。そして、1つとして不要な部分はないのである。同様に、教会を形成する一人ひとりは、一人として欠けてはならないのである。父なる神様が御霊により1つとされたからだを、人間が「不要だ」と結論づけてしまうことは、背信以外の何物でもない。神に愛され、そして神に呼び出された者である一人ひとりによって形成される交わり、それが教会なのではないだろうか。

では、教会がキリストのからだであるならば、教会にとって主イエス様はどんな存在であるのだろうか。エペソ人への手紙4章15、16節にはこのように記されている。

むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。(聖書協会)

この個所から、キリストである主イエス様は、教会にとっての「かしら」であることが分かる。かしらであるイエス様と繋がり続けることで、教会は教会としてあり続けることが出来るのではないだろうか。逆に言えば、かしら(主イエス様)なきからだ(教会)は、もはや体としての体を成さないと言っても過言ではない。

そしてもう1点、見逃してはならない点がある。それは、「成長して、愛のうちに建てられていくことになる」という点である。

カルヴァンは、新聖書注解においてこのように述べている。「キリストのからだにつながれていようと思うならば、なにびとも自分だけで何ものかであることは許されず、われわれのすべてが他の人々のためでなければならない。それは愛によってなされることである。愛の支配しないところには教会は建てられず、ただの混乱があるに過ぎない」(新聖書注解 p517上段より引用)

 私は、このカルヴァンの言葉から、教会はいわば生き物であり、刻々と変わっていくものであることを読み取ることが出来るのではないかと考える。コリント人への手紙二3章17、18節を読むと、御霊を受けた者は、イエス様のような者へと刻々と変えられていくことが述べられている。人は、聖霊により、日々、創り変えられていくのである。

 イエス様は、徹底して神に従い、そして、人に仕えるお方であった。病を負い、痛みを負い、悲しみを負う者の隣人となられた。人が背負う悲しみや苦しみを、共に背負ってくださった。そして、父なる様に御心に徹底して従い、十字架へと歩まれたのである。

 御霊を受けた者が、イエス様のような者へと変えられていく。それはすなわち、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」(聖書協会)ようになることであり、「隣人を自分のように愛」(聖書協会)するようになる、ということであろう。父なる神様を何よりも大切にし、兄弟姉妹を、あるいは他者を、自分自身を愛するように愛する者とされていくのである。

 神を最優先する際に、手放さなくてはならないものが出てくるかもしれない。自分の願いと神様の導きが異なる場合、願いを諦めることが求められることもあろう。また、他者を愛そうとする時、痛みや犠牲が伴うこともあるかもしれない。しかし、私たちが御霊により突き動かされていく時、たとえ犠牲や痛みが伴うことになったとしても、父なる神様や他者を愛することを選択していくよう、促されていくという出来事が起こる可能性が期待できる。もしそのようなことが起こるとするならば、それは聖霊の導きであり、主による促し、と捉えて然るべきなのかもしれない。

 イエス様は、十字架上での死という、この上ない苦しみを味わわれた。私たちの罪の贖いのため、私たちを愛するが故に、父なる神様の御心に従い、死への道を歩まれた。そのイエス様を救い主として崇める人々の集いが教会であるならば、教会も、神の御心を求め、他者の為に生きる共同体へと練られていくのであろう。

 人の集まりである以上、この地上において、完璧な教会は存在しない。どの教会も課題や問題を抱えていることであろう。しかし、私たちはなおも希望を見出すことが出来る。それは、教会が単なる集会ではなく、神様を中心とする、生きている交わりであるからでる。

人は時に過ちを犯す。人を傷つけてしまうこともあるかもしれないし、教会員同士でトラブルが発生してしまうこともあるだろう。しかし、キリスト者は、その問題に目を向けるのではなく、父なる神様に、そして、十字架に目を向けることができるのである。これは恵みである。どのような問題が起ころうとも、神様に祈り、神様の導きを信じ、すべてを益としてくださるお方に期待することが出来るのが、教会であると考える。

教会の構造と組織

 イエス様と教会は、かしらとからだの関係であることを述べてきた。では、私たちキリスト者にとって、主イエス様はどのようなお方なのだろうか。

 まず、イエス様はキリスト者にとって牧者であると言える。ヨハネの福音書10章11節には、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と記されている(聖書協会)。ヨハネは、主イエス様を良き羊飼いに、私たち人間を羊に例えている。

羊は我が強く、また視力が弱い動物とされており、牧者がいないと生きていけない弱い動物である。また、オオカミなどの天敵から身を守る術を持っていないため、万が一、群れから離れてしまったら命を落とす危険もある。羊たちが生きていくためには、牧者によるや養いが必要なのだ。ヨハネは、この羊飼いと羊のたとえを用いて、主イエス様こそわたしたち人間を真の意味で導き、養ってくださる方であることを述べている。

更に、主イエス様は祭司としての役割も担われている。へブル人への手紙4章14、15、16節を見ると、このように記されている。さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(聖書協会)。

バイブルナビによると、大祭司は宗教的権威の最高者であり、イスラエルの民を贖うために年に一度、至聖所に入ることが許されている特別な立場の者である。そして、へブル人の手紙においては、主イエスこそが大祭司であり、神と人と間を取り持ち、人間の罪を赦すことがおできになる方であることを語っている。イエス様は「弱さに同情できない方ではない」、「罪を犯さない」「私たちと同じように試みにあわれた」方であり、この方を通して、人は「折にかなった助け」「恵み」を受けられることが読み取れる。

また、へブル人への5章8~10節には、大祭司である主イエス様のメシア性も描かれている。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」(聖書協会)

人が経験する艱難辛苦の全てを味わわれた主イエス様は、父なる神様により大祭司と認められた。直接的には記されていないが、「様々な苦しみによって従順を学ばれた」という文言の中には、十字架の出来事も含まれているのではないかと、私は考える。

私たちの人間にとって「永遠の救いの源」である大祭司主イエス様が、十字架へかけられた。そして、父なる神様により復活し、天へと上げられたのである。父なる神様は、主イエス様を通して、救いの御業を成し遂げられたのである。故に、人は、主イエス様に全き希望を見出すことが出来るのである。

教会には、大祭司であるイエス様を筆頭として、様々な役割を担う者がいる。主に、長老、執事、牧師である。

講義テキストによると、長老の役割については、ペテロの手紙Ⅰ5章1~4節、テモテの手紙Ⅰ3章1~7節、テトスの手紙1章5~9節に記されている。これらの聖句から読み取れる長老の役割は、主に3つである。教会員の霊的なケア、牧会奉仕、外敵(サタン)から教会を守ることである。また、同じ聖句から、長老になるための資質についても読みとれる。長老に求められる資質として、主に9つの点を挙げることが出来る。一人の妻の夫であること、節制や分別があること、礼儀を重んじ、信徒や来訪者を快くもてなすこと、聖書について教えることが出来ること、酒におぼれることなく、乱暴な行いをしないこと、寛容な心を持ち、争いを好まないこと、金銭に必要以上に執着しないこと、家庭を良く治めていること、子どもたちの良き親であること、信仰歴の長い人であることなどである。

また執事についても、テモテの手紙第一3章8~13節に記されている。長老が、霊的な役割を担うのに対し、執事は、信徒の物理的なケアや食事の準備、施設等の維持管理などの役割があるとされている。長老と執事は役割の違いであって、役割に上下関係はない。執事を経なければ長老になることは出来ない、というようなことでない。

牧師は、聖書の言葉を解き明かす役割がある。キリストの教会では、牧師という言葉を使わずに「伝道者」という言葉を用いている。これは、長老との役割を明確にするためであろう。長老は、信徒たちの霊的なケアをし、時には信徒の代表として父なる神様に祈りを捧げる。人から神へ、という流れをイメージすると分かりやすい。一方、牧師(伝道者)は、神の言葉である聖書を解き明かし、信徒へと語る。神から人への流れである。いわば、長老は祭司であり、牧師は預言者のような役割を担っていると言えよう。

健全な教会の成長と宣教

 教会には役割や目的があるとされている。1つは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」(聖書協会)ことである。2つ目は、「隣人を自分のように愛する」(聖書協会)ことであり、3つ目は、信徒一人ひとりが、キリストの体として神に仕えること、4つ目は、宣教である。

また、キリストの体として機能している教会には、いくつかの特徴がある。

まず、伝道者や牧師がマネージャータイプの場合、全てを自分でコントロールする傾向がある。このタイプの教会の場合、新しいことに挑戦するというようなことは少なく、牧師の意見や考え方が教会の考え方とニアリーイコールになることもある。牧師の権威が強くなり過ぎてしまわないように注意する必要があろう。

 他方、リーダータイプの牧師・伝道者の場合、権威を自身に集中させず、信徒に役割や奉仕を分担させる傾向にある。それぞれの信徒に対して、その賜物にあった役割が分担されることで、教会としての宣教や奉仕、また、互いに愛し合うことがより適切になされていく可能性が開かれていくと言えよう。

教会においては、信徒一人ひとりが大切な役割を担っている。教会が教会として上手く機能しない場合、信徒が「お客様」になっているケースが考えられる。奉仕をすることなく、時間になったら礼拝に出席し、礼拝が終わればすぐに帰路に就く。この場合、教会員との交わりが深まることは期待できない。また、仕えるという意味においても、教会のあるべき姿とは言えない面があると言わざるを得ない。

また、家庭集会や祈祷会なども重要な要素である。家庭集会や祈祷会が霊的にも人数的にも充実しているということは、教会そのものが御霊により健全に機能していると言えよう。逆に、祈祷会に教会員の参加がなかったり、参加者が固定化してしまっていたりする教会は、霊的な問題を抱えている可能性があろう。

神を愛するにしろ、隣人を愛するにしろ、宣教や奉仕にしろ、祈祷会等の集会にしろ、その根底には祈りが必要であることは言うまでもない。祈りは、父なる神様との個人的な関係の中において与えられ、育まれていく。祈りの深さは、神様との関係性の深さと直結している。その個人的な祈りが、教会全体の祈りとなっていくのではないだろうか。

祈りにおいては、信徒、伝道者、長老などの役割は関係ない。一人一人がひとりのキリスト者として、教会のために、兄弟姉妹のために、日曜日のみならず日々の生活の中で祈っているのか否かという点は、教会の根底にかかわることである。祈りは、教会の基軸である。教会がその役割や使命を果たしていかんとするとき、祈りほど重要なものはないと考える。

教会に喜びがあるか。礼拝に出席して励ましや平安が与えられるか。この点は極めて重要な点である。説教を語る伝道者自身が御言葉に聞いているのか、聴衆一人ひとりの内に、御言葉の呼応が生まれるのかどうか。交わりが喜びの内にもたれているのか。奉仕や伝道が喜びであるのか。互いを赦し合い、違いを超えて愛し合えているのか。これら全てにおいて、祈りと、そして御霊の働きが不可欠である。教会のすべての信徒が神様を崇め、主イエスをかしらとし、主にある謙遜を求め続ける時、真の教会が主にあって創り上げられていくのであろう。

エペソ人への手紙から見る、理想の教会像

最後に、エペソ人への手紙4章1~16節から、筆者が理想とする教会像を3つ列挙する。1つは、互いに愛し合う教会、である。2つ目は、それぞれの賜物が生き生きと活かされる教会である。そして3つ目が、主イエス様を何よりも愛する教会である。

互いに愛し合う教会

4章2,3節にはこのようにある。一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」。(聖書協会)

私は、転会を考えていた時期がある。キリストの教会以外も含めた様々な教会に赴き、礼拝に出席した経験がる。その際に感じたことは、教会の雰囲気についてである。クリスチャンと言えども、初めての教会に足を踏む入れることは勇気のいることだ。ましてや、信仰をもっておられない方にとって、教会のハードルは非常に高いと言えるだろう。勇気をもって教会の門をくぐっても、教会の雰囲気が悪かったり重苦しかったりでは、礼拝説教がどんなに素晴らしいものであっても「また来たい」とは思えないだろう。

教会員が祈りによって互いを大切にし、寛容や柔和、謙遜である姿勢を示すなど、キリストの香りを放つ者とされているならば、教会の雰囲気は自ずと良いものとなり、結果として伝道にもつながるのではないかと考える。

それぞれの賜物が生き生きと活かされる教会

エペソ人への手紙4章11節を見ると、父なる神様が信徒各々に賜物を与えておられることが分かる。受けた賜物に応じて、それぞれに異なる役割が与えられているのである。この賜物は、聖霊によるのであろう。しかし、気を付けなければならないのは、異なる聖霊が与えられるのではないということである。違う役割を持つ聖霊が複数おられる、ということではなく、聖霊が持つ様々な力が、それぞれの信徒に異なる形で現れるのである。

では、なぜ父なる神様は、それぞれに異なる賜物を与えられるのであろうか。それは、同12節に記されている。「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき・・・・。」(聖書協会)

この聖句より、人によって賜物が異なるのは、その違いを認め合いながら、互いに支え合い愛し合うことで、教会を成長させていくためであることが読み取れる。

人の身体に器官があり、それぞれの機能が十分に果たされて初めて身体が成り立つ。同様に教会も、信徒ひとりひとりに讃美の賜物、御言葉の解き明かしの賜物、会計の賜物など異なる賜物が与えられているからこそ、教会と成り得るのである。

童謡詩人の金子みすゞがその著書「私と小鳥と鈴と」の中で「みんな違って、みんないい」と述べている。父なる神様は、一人ひとりを異なる存在として創造された。人の個性や賜物は、神の御業の現れなのである。その違いを批判したり、あるいは比較の対象にしたりするのではなく、神の御業であると受け止め、その違いをこそ尊重し、互いに主に仕える者とされていきたいものである。

その3 主イエス様を何よりも愛する教会

エペソ人への手紙4章15節には、「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」とある(聖書協会)。キリストのからだである教会は成長していく。その成長は御霊によるのであり、そして、変容の行きつくところは主イエス様なのである。同16節にはこのように記されている。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(聖書協会)。

キリスト者も人間である。時には信仰を見失ってしまうこともあるし、躓いてしまうこともある。そのような時に支え合い、慰め合うために、兄弟姉妹が「からだの一部」として与えられているのでないだろうか。父なる神様は、そのような弱い存在である人間に対して備えを与えていてくださり、常に愛を注ぎ、慈しみのまなざしを注いでおられる。そして、父なる神様の御心により十字架についてくださった主イエス様によって、私たちは罪赦され、神様の子とされ、主に仕える者とされているのである。

教会において、あるいはキリスト者にとって最も大切なものは十字架なのであり、十字架に付けられるほどに人間を愛しておられる主イエス様をこそ信頼すべきなのである。教会が律法主義に陥る時、あるいは霊的な問題にぶつかる時、何を最も大切なものとして捉えているのか、一度立ち止まって悔い改める必要があると言えよう。その悔い改めを、主は決して軽んじられないはずである。

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