コンテンツへスキップ 投稿日:2025年5月23日/更新日:2025年5月25日

神の国の到来-弟子たちの良い知らせと厳しい裁き

神の国

弟子訓練が続く中、派遣先で神の国の到来を告げます。良い知らせを届けます。しかし、その知らせを拒否する町や村があります。イエスは嘆きます。嘆く主の裁きを、弟子たちは人々に予告します。同胞であり、同郷の者たちです。その彼らに厳しい裁きの到来を告げます。良き知らせを届ける者は、厳しい裁きをも告げる者です。

しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」ルカの福音書10章10-16節 聖書協会

神の国が拒否され

御国のおとずれを伝える弟子訓練が続きます。イエスの祈りがあり、出先での困難を聞きます。初め受け入れる町や村を予告し、その後拒否されることを取り上げ、その折の振る舞いを語ります。大通りで言うことがあります。拒否されたら大声で叫ぶどころか、体を小さくし去るでしょう。ところが、人々に聞こえる大声が響きます。

「私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。」足のちりを振り払い町から出ます。使命を果たし決別の意思表示です。御国の近づきを最後まで叫び、人々にはいやおうなしに聞こえます。御国を拒否する町や村の人々に近づく事態を明らかにします。彼らに降る神の裁きです。最後の審判は先ですが、神のご支配が開始したところですでに裁きは始まっています。

「あなたがたに言うが、その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽いのです。」その日は罰せられる日、審判の日です。主の日、主の再臨の日です。イエスを受け入れる者たちには喜びの日です。悲しみ、痛み、叫びが終わる日です。拒否する者たちには罰が下る、破滅の日です。それを、拒否する人々に宣言します。イエスの権威で裁きのことばを放ちます。

嘆くイエス

迫る罰を語った直後、イエスの口調が変わります。

「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちの間に起こった力あるわざが、もしもツロとシドンでなされたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰の中にすわって、悔い改めていただろう。しかし、さばきの日には、そのツロとシドンのほうが、まだおまえたちより罰が軽いのだ。」

ガリラヤ湖畔の町、コラジン、ベツサイダをあげ、ああ、と嘆きます。ペテロを、アンデレを、ピリポなど輩出した町です。なぜ御国を拒否するのかと思いがつのり、ああ、と言葉にならない嘆きとなったでしょう。町は、村はイエスの悲しみを知りません。知ろうとしません。罪人の無神経さです。

嘆きの深さが、遠くのツロとシドンとの比較で明らかにします。もし、ツロとシドンの人々がおまえたちの間で起こった力あるわざを体験したなら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰の中にすわって、悔い改めていただろう。御国の近づきを見聞したのに振り向かず、拒否する町を激しく告発します。

御国に触れたら、自分の咎を嘆き荒布をまとい、灰の中にすわり、神に向きを変えるはず。嘆くのはイエスでなく、罪人たちのはずです。しかし、裁きの主が嘆きます。なんという愛でしょうか。もう一つの町が示されます。初期に、「自分の町」とさえ言われた町です。イエスの宣教の拠点で、御業を体験した町です。罪は赦されたと、中風の者を癒した町です。到来した神の国に触れたところです。その町でイエスの聖なる怒りが現わされます。

「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスまで落とされるのだ。」

イエスの宣教基地となったからといって、天にあげられることがありえようか。ありえない。逃れの道が無いと語気を強め、「おまえ」、と叫び聖なる怒りが露わになります。馴染みの町、人々に、「おまえ」、と呼び罰を語るイエスの苦悩は、裁かれる者すべての嘆きを束ねても、はるかに越えます。それほど愛し、嘆き「おまえ」、と呼びます。

「おまえ」、と呼ぶ町は、天にあげられることはない、御国へ凱旋することはないと言う。イエスとの接点がどれほどでも、近くにいても、天にあげられることなどありえません。そればかりか、ハデスまで落とされると断罪されます。神と断絶した永遠の裁き、黄泉、地獄と表現されるところです。強い口調は御国へ凱旋してほしいからです。

とこしえに愛すイエス、すべてを創造されたお方が永遠の滅びを断言しなければなりません。幾度も足を運び、寝食の場となった町が、神の裁きで破滅する宣言を聞く町となります。

福音を告げる

イエスの嘆きと裁きの苦悩を胸に刻み、裁きの予告を弟子たちは受け止め、町や村を巡り始めようとしています。イエスのみことばには、もうすでに裁きが起こったような厳しさがあります。イエスのみことばを受け、巡る弟子たちの行く手に辛く、険しい道があります。警告と裁きを宣言する、緊迫した道が展開します。

イエスに先んじ、よきおとずれを伝えるはずが、福音を拒否する人々に、ソドムを想起させ、それ以上深刻な罰が下る宣言をすることになります。宣教はよきおとずれの伝令と同時に、主の裁きがともないます。歓待されることもあるが、迫害に直面することもあります。険しい場面に立つ福音宣教者です。派遣者イエスの十字架が、これから出向く弟子たちの道を暗示します。

神の国

主イエスからの慰め

困難な道に踏み出す弟子たちに、イエスのみことばはちからとなり、慰めとなり、宣教の命綱となります。イエスは弟子たちに権威を与え、彼らとイエスとの関係を明確にします。イエスと父なる神とのかかわりと直結する関係が弟子たちにあると聞き宣教地へ赴きます。彼らのことばは、イエスとイエスをお遣わしになられた神のみことばであると太鼓判を押されます。

「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」

派遣はイエスの祈りで始まり、主の権威と弟子との関係を明らかにし終わります。イエスは弟子たちとひとつであることを告げ、イエスが父なる神とひとつと語ります。彼らは、神と共にあると確信し、どんなときも共におられるイエスに感謝し宣教地へ向かいます。すべてに福音を伝えます。

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