義に飢え渇く者は幸いです。その人は満たされると主イエス様は言っています。神の義と人間の正義の道について考えます。義を求める人は、誰でも満たされるという意味でしょうか。主イエス様がいう義とは何でしょうか。世界中の人が正義を求めていても、なぜ争いごとは絶えないのでしょうか。
義とは何でしょうか
主イエス様が言う義を日本語でもっとわかりやすく言えば、正義と言えるでしょう。神様の御心に示される正義です。人間が求める正義ではありません。ですから、自分が信じる所の正義を求めていれば、報いられる、満たされるという意味ではありません。主イエス様の教えを誤解しないために、人間が求める正義とは何か、また誰でも正義を求めている真実について考えてみます。
人間は誰でも正義を求めている
40年程前、私の職場の上司が、人間関係の難しさを私に教えるために、次のように言いました。「人にはそれそれ自分の正義がある」と。人にはそれぞれ言い分があり、自分なりの大義名分があるというのです。これは個人レベルでも、国家間でも言えることです。隣国の中国と韓国は、日本とよく敵対することが多いですが、彼らにもそれぞれの正義、大義名分があるのです。
犯罪被害者の方々は、犯人が罰せられ正義が行われることを強く思うでしょう。ですから「極刑を望みます」と涙ながらに訴えるのです。これは当然の気持ちでしょう。しかし、不思議なことに、正義は誰もが求めているものなのです。
ヤクザのような犯罪組織にも正義の掟があるのをご存じでしょうか。彼らが定義する「人として、ヤクザとして」やってはいけないこと、暗黙の了解があります。人の道に反することをしながら、彼らの仲間内では不文律の規律があります。子分は、親分に絶対の忠誠を誓います。もしそれを裏切ったら死を覚悟しなけらばなりません。
落とし前として「指をつめる」ということを聞いたことはありますが、あれは映画だけの話ではありません。実際にあることです。私自身、昔ヤクザだった方と出会ったことがあります。ヤクザをやっている間、何かやらかしてしまって左手の小指が半分ありませんでした。「指をつめる」これは、ヤクザの正義の決着のつけ方でしょう。
なぜ人間は正義を求めるのか
しかし、なぜ人間は正義を求めるのでしょうか。犯罪のオンパレードになってきている日本において、犯罪組織の人たちでも正義を求めるのはなぜでしょうか。
ここに人間の最大の矛盾があるのではないでしょうか。一般論の正義では、「悪が裁かれ正義が勝ちます」。この正義が行われるのを、みんな喜びます。だから、正義物の映画やテレビドラマが、いつの時代でもどんな文化の国においても流行るのです。これも不思議な事です。いつの時代でも、どんな人種の人たちでも、人は「正義が勝つ」ことを喜ぶのです。
しかし、同時に一般論の正義とは別に、人は自分なりの正義を持っています。他人とは違った正義です。その正義ゆえに、世の中には争いごとが起きるのです。この事実は、本当に興味深くありませんか。争っている当事者たち双方とも、悪が裁かれるのを望んでいるのです。これこそ、人間の罪の証明でもあります。
すべての人間は、神様によって創造されています。人間は罪深い存在ですが、その霊的なDNAの中に少なくとも良心がまだ含まれています。その良心から、人は正義を求めているのです。しかし、その正義は歪んだ正義です。自分中心、自己中心の曲がった正義です。
神の義に飢え渇く者
主イエス様が教えている義とは、人間が求める正義ではありません。主イエス・キリストを信じる信仰者は、神に目を向け神の正義を慕い求めます。いつの時代でもこの世は罪で満たされています。悪がはびこり悪魔であるサタンが、人をだますために活発に働いています。
そのような世の中で、クリスチャンは神の正義を求め、神の御心と神の支配を求めるのです。神の正義が行われるように祈り、また正義が行われるように御言葉を実践します。
またこの「飢え渇く」という表現には、特別な意味合いが込められています。新約聖書が書かれているギリシャ語での意味は、ただ単にお腹が空いたという感覚ではありません。飢餓状態の様な飢えです。また渇くという単語も、まさに砂漠にいるような状態の喉の渇きを指しています。
しかし、物質的に恵まれている日本に住む私たちは、「飢え渇く」経験があまりないのでキリストが言っている真意はわかりにくいかもしれません。1世紀には、貧富の差が今よりも大きく、多くの人々が餓死しました。「飢え渇く」という表現が、身近にあった世の中でした。さらに中東には砂漠地帯も広がっています。そのような場所では、「一滴の水でも欲しい」という「飢え渇く」経験をした人は少なからずいたでしょう。
そのような人々にキリストは、神の正義に当てはめて「飢え渇く」という表現を使っているのです。おへそと背中がくっついてしまうほど飢えている、灼熱の太陽の下で砂漠を歩いていると想像してみてください。正義に対して飢え渇くとは、人間の心の奥底から求める叫び、熱い思い、願い、祈りなのです。
人間の正義ではなく、神の義を慕い焦がれる
崇高なクリスチャンであっても、有名な説教者であっても、神の正義ではなく自分の正義を求めることがあります。管理人は、それを自分の目で見たことがあります。それは説教者の討論の場で起きていました。どちらの主張が正しいのか、それはわかりません。それは二の次の事でした。なぜなら、双方の説教者も、自分の解釈が絶対に正しいと譲らなかったらです。私の疑問は「ひょっとして、この人たちは神の正義ではなく自分の正義を求めているのかな?」でした。神の義を求めているつもりでも、実際は人間の正義を求めている時はないでしょうか。
2つのまったく違った意見が、両方正しいことはあり得ません。なぜそれ程、自分の意見に固執したのでしょうか。もしかしたら、彼らの意見は、神様の目からはどうでも良い事であったかもしれません。議論に負けたくなかったから、自分の意見に固執したのでしょうか。
2人の説教者の討論形式の本では、思わずペンが(気持ちが)熱くなっているのを、管理人は文面から読み取ることができました。相手の方の知識、インテリジェンスを疑うような表現も読んだこともあります。このような場合、本当に神の義を求めているのでしょうか。
神の正義を求めるためには、「心の貧しい者」でなければなりません。心の貧しい者でなければ、ただ単に自分の正義、人間の正義を証明したいだけに終わってしまいます。
この世の支配者である悪魔であるサタンは、人間をだます専門家です。悪魔は、人間を神様から離れさせるために、あらゆる手段を使って人間たちをだまします。その一つが、人間が自分の正義を求める時に、悪魔の策略に見事にはまっているのです。その結果として、人間同士が争ったりするのです。クリスチャンも例外ではありません。このような邪悪な世の中だからこそ、神の正義を求めるべきなのです。
主イエス・キリストを信じる人は、神の義を祈り求めます。決して、自分が考える「自分の正義」ではありません。日々、神に祈り、神の御心がこの世で行われるように、祈りましょう。読者の皆様の上に、神様の豊かな恵みが宿りますように。コメントなどお待ちしております。