人生において、試練は避けることのできない要素です。これらの試練は、一見すると困難や苦痛を伴うものに思えるかもしれませんが、実際には人間の成長において重要な役割を果たします。本記事では、試練を通して人がどのように成長するのか、その理由を3つの観点から探っていきます。試練を乗り越えることで得られる知識や経験は、私たちをより強く、より賢くしてくれるのです。試練を受け入れ、成長の機会として活用するための洞察を共有します。
ヨブの試練
試練とは、どのようにもたらされるのでしょうか。ヨブ記を読むと、サタンがヨブをターゲットにして試練を与えているのがわかります。神は、条件付でサタンの悪の行いを許容しました。サタンは、自然災害、病気、親族の死を用いて、信仰の人ヨブを苦しめます。このように、個人をターゲットにして、試練が与えられることが今日でもあります。
サタンが人間を苦しめる手段は、今日でも同じです。さらにサタンは、ありとあらゆる手段を使って、狡猾に人間の心を惑わします。人間が罪を犯し続け自分自身で苦しみを招き入れるように、サタンは策略しているのです。自然破壊することによって引き起こしている地球温暖化も、人間の自暴自棄といえるでしょう。
この記事では試練を通して人が成長する理由を考えてみます。

試練を通して人は成長する 3つの理由
管理人が子供の頃、「苦労は買ってでもしろ」と大人の方々から言われていました。しかし、これは神様を信じていない、クリスチャンではない方々の助言でした。苦労や試練は、人間が成長するための原理原則ではないかと私は思います。そこで試練を通して人は成長する3つの理由を考えてみます。
試練を通して人は人生の法則を知る
神様は、人に人生の法則、生きるべき道を与えています。その法則に反した行いをすれば、遅かれ早かれ悪いことが起きます。この意味で、人間は、自ら試練をもたらしているとも言えます。クリスチャンではない人にとっても、試練は人生の法則を知るきっかけになります。
人生の法則は聖書に書かれていますが、クリスチャンではない人はそれを知りません。そこで経験を通して人生の法則を知ることになるのです。仏教に由来する言葉として因果応報がありますが、これは人生の原則の一つに過ぎません。
クリスチャンではない人は、人間関係の法則、自分自身に対処する法則などいろいろな原則を失敗を通して学びます。人生の晩年になり死を直面した時に、自分の人生を振り人生の何たるかを少しでも垣間見るのかもしれません。
一方、クリスチャンはどうでしょうか。クリスチャンは信仰をもち聖書を日々読んでいても、人生の法則をすべて理解しているわけではありません。ノンークリスチャンと同様に、人生の失敗や試練を経験しながら学です。しかし、大きな違いは、クリスチャンは信仰をもち聖霊なる神様の助けと導きを直接受けることが出来るのです。聖霊なる神様が、そのクリスチャンを正しい方向へと導いてくださるのです。

試練は品性を磨き忍耐が養われる
わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。ヤコブ1章2-4節
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、…そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。ローマ5章1‐4節 聖書協会
また試練はクリスチャンにとって信仰のテストと場となりうるのです。神様の方に目を向け、自分の傲慢さやプライドを悔い改めるのです。天の神様がすべてを支配している事に気づかされます。試練によって信仰が清められ、品性が磨かれ、忍耐が養われます。
試練は、クリスチャンにとって悔い改めのビッグなチャンスでもあるのです。主イエス様だけを見上げて生きていく「信仰深い生活」へのきっかけに成り得ます。から
しかし、天の神様は、このような試練を人間の成長のための手段として用います。管理人自身、クリスチャンになり教会の礼拝には出席していましたが、決して信仰深い生活を送っていたわけではありませんでした。そのような時に私は神様の訓練と鍛錬を受けたのです。
…「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。へブル12章5-11節 聖書協会
この試練は、ヘブル書12章5節―11節では神の訓練として説明されています。神の訓練として、耐え忍ぶように勧められています。ヘブル書の観点から言えば、試練は天の神様が私たちにもたらしてくれるものと言えます。私たちの過ちや罪を正すために、神様はこの試練与えてくださっているのです。おごり高ぶりが私たちにあれば、へりくだらせるために、神様は私たちに試練を課して下さいます。
しかし、へブル12章が言っているように、人生の試練は決して楽しいものではありません。誰一人、進んで受けたいとは思わないでしょう。悲しみの時であり苦しみの時ですが、神様の子供としてクリスチャンは、神様の訓練を必要としているのです。「素直に受けなさい」とヘブル書の著者は励ましています。あなたはどうですか。
試練を通して人の痛みを理解できる
最後に、人は試練を通して他の人の痛みを理解できるようになると管理人は思います。体育系のクラブ活動では、「自分が苦労した分だけ下にも苦労させる」いじめ体質がありますが、神様の法則は真逆です。主イエス様は、試練を受けたがゆえに、試練を受けている人たちを助けることが出来るお手本を示してくださいました。
他の人の痛みを感じることができるーーーこれは人間の成長の一つの証ではないかと思うのです。今の時代、「自分さえ良ければ他人はどうでもいい」のような風潮が強くなっています。このような世の中でこそ、私たちは他人の痛みを共有する人格が求められているのではないでしょうか。

試練に対処する問題点
問題は、その試練を神様の訓練として受け入れるかどうかです。私たちが、神様の訓練、働き、摂理に気づくかどうかにかかっています。環境や境遇に対する人の反応は、非常に興味深いものです。まったく同じ境遇に育ったとしても、人は同じように育ちません。
二人の人が、まったく同じような試練を受けたとしても、まったく違った反応を示します。一人は自暴自棄になって、ますます悪いことに手を染めるかもしれません。もう一人は謙虚になり、神様に目を向けて悔い改めるかもしれません。私たちはどちらの道を選ぶのでしょうか。
神様の訓練と成長をグラフで表すと、一直線ではないことに気づかれるでしょうか。試練を受ければ、落ち込むこともあるでしょう。しかし、そこから信仰によって成長していくのです。神様は、私たちの成長を期待して訓練を与えています。ますます良い実、聖霊の実を結ぶことが出来るのようになるために、訓練されているのです。日々、神の訓練を受けましょう。神の御国と義を求めて生きようではありませんか。
